四、楫取寿子女史のこと(三)



  

二条窪 楫取旧宅跡 碑



「二条窪の人との別れ」

 寿子女史が二条窪を離れて、関東に移住されたのは、明治七年、年令三十七才の夏であった。夫君素彦氏が足柄県参事の職から、熊谷県(後の群馬県)の県令(現在の知事)に栄転、赴任せられるに当たり、家族を同伴されることになったためであろう。
 寿子女史にとっては、背の君のまします嘱望の地への輝かしい門出であったが、一面、住みなれた山河を離れ、ともに聞法を喜びあった同行達と別れて、ひとり未知の土地に旅立つ一抹の哀愁もまた禁じ得なかったであろう。離別にあたり、近隣の一人一人に、会うは別れのはじめと、人生無常の道理を説き、やがて俱会一処の果報を喜び、そのためにも揃って聞法にいそしみ、くれぐれも観音堂の法筵が続けられるよう懇請されたことと思われる。
 二条窪では、現在でも毎月各家の輪番でお講が行われ、そのお講の本尊には、広如上人御真蹟の六字名号が安置される習慣になっている。この尊号は、寿子女史が出発にあたり、村人たちへの形見として遺されたものと伝えられている。



「本願寺の群馬開教を発願、外護」

 寿子女史の赴かれた群馬県は、上州、武州の二国にまたがり、昔から遊侠の徒と嬶天下で名高いが、宗教的関心は極めてうすく、仏法とは縁の少ない土地であった。従って、ややもすれば、人心も荒く、法令を犯す者も多かったようである。女史は、夫君の為政をたすける意味からも、また、自信の報仏恩の心情からも、是非、この地に真宗の法義を弘め、自他ともに現当二世の利益に浴したいと発願された。
 そこで、先ず思い立たれたのが、伝道者(僧侶)の招聘と道場(寺院)の建立であった。あたかも本願寺においても、東北開教に乗り出そうとしていた折柄でもあったので、早速、布教使小野島行薫をこの地に派遣し、楫取氏夫妻の聖行に協力せしめ、前橋を拠点とする開教の第一歩が踏み出されたようである。
 当寺第十七世蒙照は、寿子女史に遅れること半歳、明治七年の極月に郷里を離れて東京にのぼり島地黙雷師(明治の傑僧、本願寺の重鎮)の世話により、当時の宗教最高学府である大教院に入り、勉学に志したが、不幸にして病魔におかされ、翌年四月、東京佐藤病院において客死している。蒙照の東上が、寿子女史の誘いによったものか、自らの志願によったものか明らかでないが、少なくとも、その蔭に女史の護法と愛郷の至情にもとづく深い配慮が動いていたことは確実なようである。
 蒙照の死を悼み、布教使日下道明氏から当寺に送られた悔み状が現存しているが、それによると、蒙照の病気を伝え聞かれた楫取家では、非常に心痛せられ、本人を手許に引き取り養生させたいので、至急前橋に連れて来るようにと、日下氏を東京に派遣せられたが、とき既におそく、本人死去と聞かれ、大変悲嘆せられたと書かれてある。寿子女史は、郷党の一青年僧に勉学の機会を与え、将来、大悲伝化の活躍を期待せられたのではなかろうかと、ひそかに想像することができる。
 僧侶の招聘と同時に、寿子女史は聞法の道場たる寺院の造営を発願せられた。これは、かつて二条窪において堂宇を建立せられた経験に徴しても、極めて自然な着想であったと思われる。しかし、これまで宗教的には全く不毛に等しいこの地に、新しく真宗寺院を開くことは、容易な業ではなかったと思われる。種々な経緯を経て、ここにはじめて本願寺を設立者とする寺院が出現した。女史は終始、外護者として援助し、土地の選定や資材の調達など、一方ならぬ尽力をせられたことは、いうまでもない。そして、これには夫君の県令としての地位が、大いに力強く活用されたことであろう。
 三隅出身の中原復亮氏(元町長白藤董氏、故中原蓬女医のご尊父)は、当時、楫取氏の要請により群馬県に勤務し、後年土木課長の職につかれた。この寺院建立には最初から企画に加わり、県令の意図を汲んで、種々奔走せられたようである。白藤家には、島地黙雷師から復亮氏にあてて、謝意を表した親書が保存されている。これによると、時の本願寺法主明如上人が、この新寺建立を慶讃し、将来の開教発展に期待をかけて居られると共に、本願寺をあげて楫取家の外護を感謝している様子が十分うかがわれる。



「酬恩社教会活動を支援」

 女史は前橋に移住されるや時を移さず、辛苦奔走して、群馬県庁の役人やその家族を勧誘し、聞法同志の会を設立せられた。そして、後にこれを酬恩社教会と名付けた。いま、その会員の実践目標として定められていた会則を見れば、女史の意図された信仰即生活の理想がよく表現されている。
 寿子女史のために良き教導者であり、また聖行の協力者であったのは、本願寺布教使の小野島行薫師であった。師は山口県熊毛郡田布施町麻郷の出身で、当時名声高く、しかも特色ある布教使で、本山から東北開教の特命を受けて、前橋に駐在していたようである。



「寿子女史の往生」

 寿子女史は、明治十年四月、軽い中風症にかかり養生につとめていたが、同十三年胸膜炎を併発して、遂に東京の本邸に帰り病床に臥する身となった。この年十一月、夫君素彦県令が歳末多忙のため、本邸から任地群馬に帰られることになったとき、寿子女史は自分の病状が一方ならぬことを思い、これが今生の別れになることを心中深く覚悟しながら、何ら外色に現わさず、背の君を送り出された。旬日を出でずして、病状は悪化して重態におちいられたので、子息達が父君に急報しようとせられるのを押し止め、一家の私事と公務の軽重を忘れてはならぬと、遂に許可せられなかった。
 翌明治十四年(一八八一)一月三十日の早朝、口を嗽ぎ、髪を梳り、居あわせた親族知己や親しく看護しておられた肉親の方々に、夫々厚く礼を述べ、傍らの人に援けられて端座合掌し、声をだして念佛しながら、往生の素懐を遂げられた。年齢未だ四十三才。尊い報謝行の数々を残されたとはいいながら、惜しみてもあまりある短命であった。



「寿子女史の遺言状」

 寿子女史には二人の子息があり、夫々、既に結婚しておられたので、両嫁女に、女史は特別の愛情を傾けておられたようである。難病に臥せておられながら、自分の信仰の喜びを両女に伝え、ともに現当二益の利益に遇いたいものと、切々たる望みを嘱しておられたのであろうか。重い病苦の中に、二女に書き残された尊い遺言状が今に残っている。
 それは、御法義を中心に、婦女の心得べき処世のいましめを懇切に示されたものであるが、女史が体験を通して吐露された「真宗女性訓」ともいうべきものである。
               ―以上、『清光』誌〝信の香り〟転載―



(以下約五五〇〇字に及ぶ長文の遺訓状というべき遺言状が載っているが、韮塚一三郎著『関東を拓く二人の賢者』205頁~208頁にも掲載されているので、ここでは略す。)






五、村人とともに汗をながす