五、村人とともに汗をながす 



 

二条窪 楫取旧宅跡 案内板



 二条窪というところは戸数十五、六戸という山あいの農林業の集落で、藩政時代には遠く於福村から大ケ峠、渋木の坂水の峠を越えて、二条窪から川下約さ3㎞の豊原の舟戸まで年貢米などを運ぶ街道筋であった。舟戸は年貢米などの積立港のあった所で、この豊原には商家が多く三隅ではにぎやかな集落として栄えてきた。二条窪は街道の要所ではあるが、今も昔も変わらぬ閑静な小集落である。
 『三隅町の歴史と民俗』楫取素彦人物伝715頁には次の記述がある。


「明治三年(1870年)には二条窪に邸宅を新築して「桜楓山荘」と称して起臥していた。古老の伝えるところによると、彼は居宅の地を得るや、荒地を開墾して不毛の地を食田に変え、明治四年には山林大火のあとへ植林することを教えた。自ら百姓姿となって村人の間に混り、率先開墾の鍬を揮いあるいは木を植えた。少なかった採草場は自ら官に乞うて隣村深く入会権を獲得して与えるなど、大いに村民の利益を増進した。」と。


 言うまでもなく、開墾とか植林とかいうものは直ちに現金収入に結びつくものではない。先祖から受け継ぎ子孫へ伝えてゆく地道な営み。今日の勤めとして励むものであり、四季のめぐりに望みをもって大地に根をおろす土着の魂を失えば、たちまち荒廃してしまう。
 二条窪には楫取山の名の美林があり、地区の造林は行き届いている。旧三隅町の造林は藩政時代から盛んで、昭和時代中期までは町財政を支える大きな財源だったという歴史がある。素彦氏が植林の知識を村人に教えたというのではなく、混迷の時にあえて植林の意味を考えさせ、ともに植林に汗を流したということだろう。その後、村人が造林撫育に努めてきたことの渕源にこの話があるということは素彦氏の感化の重さを語っているのではないだろうか。




六、夫妻の二条窪在住は短い