六、夫妻の二条窪在住は短い



 

楫取旧宅跡 案内板前にて
上毛新聞社から、楫取素彦夫妻の取材に来訪。富田記者と堀八郎氏と共に。
取材記事は、「山河遥かー上州・先人の軌跡ー第一部 楫取素彦」となり、
2007(平成19)年10月22日~11月9日まで、15回にわたり連載。




 素彦夫妻の三隅在住期間は明らかでない。
「明治三年に二条窪に邸宅を新築して桜楓山荘と称して起臥していた」と『町史人物伝』に記すが、「明治三年の三月八日、脱藩変動により藩政府員辞職に付、亦辞して山口を去る」と年譜にあるので、この時は三隅の邸宅へ帰宅したが、その直後の三月二十九日、三田尻管掌(市長職)を命じられ、諸事業を執行しているので三田尻在住ということになる。
 従って前年の明治二年三月に藩主扈従を解かれ、鷹司前右大臣の付随を命じられた頃に三隅居住を決めて、宅地周囲の石垣築造を始め、邸宅の新築工事が完成した後、寿子夫人や家族は明治三年の早春に萩から移住された。その邸宅へ三月八日職を辞した素彦氏が帰宅したと考えるのが妥当ではなかろうか。


 明治三年は三田尻管掌として三田尻在住。
 明治四年は年譜によると正月七日に勅使岩倉具視山口下向に付引請掛を命ぜられ、三月二十八日敬親公薨去。そして葬儀に当っては、四月二十八日勅使堀河侍従山口下向に付引請掛を命じらるなど多事多用であわただしく、それを最後の大役として勤めた後引退し、翌五年二月、足柄県参事(副知事職)に任命されて赴任するまでが二条窪穏栖の日々であったのではないか。
 このような推量をしてゆくと素彦氏は、明治三年から通算して約一年位の在住だったと思われる。


 寿子夫人が二条窪から転出されたのは『町史人物伝』には明治七年七月に素彦氏が熊谷県権県令栄転の時としてある。明治三年早春から明治七年七月までとして約四年半。足柄県赴任の明治五年二月までとすれば約二年。いずれにしても長い期間ではない。




七、聞法の願いを支えた人たち