七、聞法の願いを支えた人たち



 

二条窪観音堂
前橋市清光寺坊守と、
当時から楫取家と縁が深い、旧宅の管理者の堀八郎夫妻と共に。




 二条窪の住民の殆どは約三㎞川下の豊原にある真宗宗善寺所属の門徒である。地区の小堂で聞法の縁を開いてほしいという寿子夫人(明治四年は三十三才)の願いに応えた宗善寺の實恩住職は五十二才。明治十七年には本堂の新築再建という大事業をした人である。
 以来約百四十年、現在もこの無量講という法座が回数も、形式も当時とは異なっているようだが、各家が輪番制で世話係となり、宗善寺住職を招いてこの堂で存続しているということは、実にすばらしい伝統である。

 二条窪転出後の楫取家の財産管理を代々委任されている堀家と楫取家の関係は何によるのかわからないが、今も無量講の御名号を護持する家である。
 堀家は藩政時代から名字を許された家で、町内の武家や庄屋級の家と婚姻関係のあるこの地の名家有力者で、当主堀八郎氏の話では、昔は町内の禅宗の寺の檀家であったが、楫取氏との関係で真宗宗善寺門徒になったらしいとのこと。当主は宗善寺の門徒総代長を勤められた。

 明治四年当時の当主は堀弥三右エ門三十三才。楫取家のお世話をする何らかの関係があって、地域の有力者として無量講の維持や住民の参集を勧誘することに力を注いだのではなかろうか。当時の混迷の世相をどう生きてゆくかを求めている名家の若い当主にとって、この法座は仏法のことはさておいても、強く惹かれるものがあったに違いない。無量講の外護者という存在であったといってよいと思う。いつしか念仏者となり転宗したことが、それを立証する。

 楫取家には地元の某家が使用人として雇用されていたという。この家族を通して地元住民の個々の動静や諸問題が夫妻に伝えられ、これが法座開設をすすめる一因となったのであろうし、法座参詣の勧誘や夫妻の意向の村人への伝達などに大きな力となったことは疑いない。よい人間関係がなければ、仏法の座へ集まるものではない。寿子夫人が小堂で地域の子女に裁縫や読み書きなどを教え導いたと伝えられることも法座の開設や存続に大きな関わりがあっただろう。




八、関東開教の原風景