八、関東開教の原風景




二条窪の風景





こうした聞法の講には、月二回ともなれば当然所属寺の住職ばかりでなく、有縁の寺院から法話の講師を招く機会が多くなる。
 極楽寺は二条窪から約五㎞北の漁村の寺。明治四年当時の蒙照住職は三十一才。十六才の夏から一年間、熊本の針水勧学(勧学というのは西本願寺派の教学上の最高学位)の下で学び、その後、徳島、大阪ほか各地の名師を訪ね、毎年一年の大半を師の下に滞在して学んできた好学の僧で、明治三年の冬から自坊に居て、明治四年秋、住職を継職している。
 学問好きの若い僧ゆえ幾度か二条窪の法座に招かれて素彦夫妻の好遇を得、本人も夫妻の人柄、識見に接することを喜びとしたのではなかろうか。

 毎月二回の聞法会は、昼間か夕食後かわからないが、小堂に集まり、勤行(読経)、法話のあと座談というのが古来から伝わる形式である。
 深い教養と人生の辛苦を味わってきた篤信の寿子夫人、また素彦氏(明治四年、四十三才)ほどの経歴、学殖の人物を前にして法話をするということになると、村人が主な対象であっても一席の法話には自ずとゆるぎのない信と教学研鑽の裏付けが求められ、維新の後の改革変動、不安混迷の世相に惑う村人の心情に伝わるものとなってくる。だから法話の準備は大変な負担となるが、励みともなる。
 そしてそのあとの座談では、仏法のことだけでなく、混迷の世相であるだけに、日常生活から地域社会その他の問題が、控え目ながら村人から発言され、話題となり、楫取夫妻からも教示を受けることは自然の成り行きである。それは、聞法会の魅力でもあろう。
 素彦氏自身もわが身に問いかけながら、人としてあるべき生き方を考え語られ、仏法の上からはどうかを問われたことであろう。まさにひざを交えながら悩みを聞き、日々の勤めのあり方を、さらには治政のあり方を模索する意味深い座談の場となったであろう。

 十数戸の集落の老若男女が、ときには男女別々に狭い観音堂に月二回も集まって仏法を聞き、問い、答え、語り合う。その同じ座に連なって静かに聞法する素彦夫妻の姿。多くは寿子夫人だけであっただろうが、和と感化を醸しだす法縁であっただろうと思わずにはいられない。
 後年の群馬県令治政のとき、徳育をもって最とし、智育これに次ぐとした教育の姿勢は、このときの体験と関わっているようにも思う。勝手な想像をめぐらしてみた。
 ともあれ、夫妻の二条窪在住は短く、年表にも載らない日々であったが、夫妻にも村の人たちにも深い感動が刻まれる日々ではなかったか。その後の楫取群馬県令の治政や関東真宗開教の原風景のひとつではないかとの思いが湧いてくる。


 浜口恵璋著『新妙好人伝―長州楫取希子』に次の記述がある。
「山口を去りて、大津郡二条久保村に居る。希子村民を勧めて多くの田畠を開拓せしめ、無職業にして遊びの内に日を送れる若者らを諭し、各々勤労に就かしむ。

 されど愚民の習とて無根の事を信じ、ややもすれば穏やかならぬこと多かりしかば、希子はかかる者を諭して善心になさんには教法に如く者無かるべしとて、小き堂宇を村内に建立し、毎月二回づつ闔村の男女を集め、僧侶を聘して法筵を開き、/教理を諭されけるに村民大に其徳に靡き、其法筵は永く此村の定式とし、今に廃する事なしと言う。/

 明治七年の夏、熊谷県令に転任し、希子も同じく其地に移り住せしが、熊谷県は上州武州の二国に跨がり、元来仏法少き地故風俗強獷にして、往々地方庁の法度を犯す者多ければ、希子は先づ県官等を勧めて仏法を聴かしめ、それより追々下民に法義を弘め、牧民の助けとせり。」
二条窪時代の夫妻の体験を原風景としてその延長線上に難治といわれた群馬県での治政、郷土づくりがある。その基盤を仏教の宗教的情操の醸成によって実現しようと辛苦を重ねた夫妻のことについて、資料紹介によって補足説明したいと思ったが、二条窪時代を担当する紙面の都合で割愛し、以下は一般にはとりあげられない事蹟の概要に留めることにする。






九、上州布教を懇望した楫取夫妻