九、上州布教を懇望した楫取夫妻


  
楫取素彦氏 功徳碑
群馬県庁隣接高浜公園






 明治七年七月、素彦氏は熊谷県権県令(県知事職)を命じられた。熊谷県は現在の群馬県南部と埼玉県北西部を管内として、県庁は現在の埼玉県熊谷市に設けられていた。 素彦氏の元へ移住した寿子夫人は、この地に真宗寺院が極めて少なく、聞法の縁がないことを残念に思い、また宗教心が薄く世情の荒れたこの地に、人心の安定のためにも本願寺の説教所が開設されることを懇望した。素彦氏は夫人の願いを容れ、上京の折に築地本願寺別院を訪ね、熊谷県へ教導職派遣を願い出、外護を申し出た。
 このことについて、ときの西本願寺門主明如上人の常時扈従の秘書をつとめた三島了忠の著書革正秘録『光尊上人血涙記』の105頁に次の記述がある。


 「かねて新潟県令から巡教を願い出て居り、また信州松本に別院を新設して、その開堂式の御親修を願い出て居る。そこにまた熊谷県令の楫取素彦が来て上州布教を懇望した。
  県令は他日男爵を授けられた偉物で、久子夫人は吉田松陰の妹である。何でも内務卿大久保利通の親友で特に見込んで難治の上州の県令たらしめたのだとのことである。上人に巡教を願ったのは久子夫人の提議に基づいたのであるという。
 しかし本派の末寺は高崎の覚法寺、境の弘教寺、安中の清照寺、桐生の重恩寺、隅田の光誓寺の都合五ケ寺に過ぎない。一向振はない土地であった。申し合わせたような小寺で参詣人も少なかった。
 上人は(明治八年)九月上旬巡教の途につかれた。先ず上州に乗込まれたもののとてもお話しにならぬ。そこで熊谷町の楫取県令の官舎に二、三日逗留し、官舎で上州布教の第一声を金山仏乗が勤めたのである。 また小野島行薫が上州布教を担任することとなった。これは山口県人である楫取県令が自分の素志によって真宗弘法の先鞭をつけたのを記念したいという処から特に希望したので、山口県人である小野島行薫を推薦することになったのである。/
 県令の官舎を根城にした上人の巡教は、なかなか骨が折れた。自動車も馬車もないのだから、毎日諸方に出掛けるには上人だけを人力車に乗せて、お伴はみな徒歩だ。/
 高崎の覚法寺に一泊。親教があり帰敬式もあったが、その数極めて微々だるもので/拝聴者は堂に満たず三帰礼を受くる人も僅かに十四五名を超えず、予告してそれであるから当時の状態は推して知るべしである。」





 

十、小野島行薫の登用