2013(平成25)年8月


 8月2日、日本テレビ系の「金曜ロードSHOW!」で放送された宮崎駿監督の名作アニメ『天空の城ラピュタ』。14回目の放送にもかかわらず、18.5%の高視聴率だったとか。この文章は、2007年に再放送された際に、ミクシィの日記に書いたものです。
  恵みをいただくという謙虚さを忘れ、自然を利用するための資源としてしか見ることができない私たちの傲慢さに、警鐘を鳴らす作品として改めて受け止めねばならないと感じています。シータの叫びが、「どんなに株価が上っても、巨大なエネルギーを生む原発を作っても、土から離れては生きられないのよ!」と聞こえるのは、私だけでしょうか。






 昨日、TVでまた『天空の城ラピュタ』(監督:宮崎駿)をやってたんですね。 ボクは、この作品は宮崎作品の最高傑作だと常々思っておりまして、何回見ても厭きません。時間さえあえば、きっと昨日もテレビの前に座り込んでいたでしょう。 特に、クライマックスでシータが語る言葉には、いつもいつもうなずかされます。

「今、ラピュタがなぜ滅びたのか私よくわかるわ。ゴンドアの谷の歌にあるの。
 土に根を下ろし   風と共に生きよう
 種と共に冬を越え  鳥と共に春を歌おう
 どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、
 土から離れては生きられないのよ!」

僕たちはどこにたって生きているのでしょう。
土と共に、風を感じながら生きているのでしょうか。
僕なんかは田舎に住んでいるわけですから、土を触ったり、風に吹かれたりといった機会はあるにはあるのですが、どうも快適な日常から一歩踏み出した非日常≠ニして捉えているような気がいたします。
土も風も、共に生きるものとして出遇っているのかというと、どうもそうではないような…。



 さて、この言葉を聞くと思い出すのが、パキスタンでの医療活動・アフガニスタンの村々で水源確保作業に取り組んでおられるペシャワール会中村哲医師の文章であります。

「作業地の上空を盛んにヘリコプターが過ぎてゆく。
 時には威嚇するように頭上を旋回して射撃音が聞こえる。
 けたたましくも忙しいことだ。
 我々は地上をうごめくアリのように、ひたすら水路を掘り続ける。

 彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。
 彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ。
 彼らは暗く、我々は楽天的である。
 彼らは死を恐れ、我々は与えられた生に感謝する。
 彼らは臆病で、我々は自若としている。
 同じヒトでありながら、この断絶は何であろう。

 彼らにわからぬ幸せと喜びが、地上にはある。
 乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。
 自ら汗して、収穫を獲る喜びがある。
 家族と共に、わずかな食べ物を分かつ感謝がある。
 沙漠が緑野に変ずる奇跡を見て、天の恵みを実感できるのは、我々の役得だ。

 水辺で遊ぶ子どもたちの笑顔に、はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは、
 我々の特権だ。
 そして、これらが平和の基礎である。

 元来人に備えられた恵みの事実を知る限り、時代の破局は恐れるに足らない。
 天に叛き人を欺く虚構は、必ず自滅するだろう。
 平和とは、単なる理念や理想ではない。
 それは、戦争以上に積極的な活力であり、我々を慰める実体である。
 私たちはこの確信を持って、今日も作業現場で汗を流す。」
                     (ペシャワール会報 No,88 中村哲)


 いくら田舎で暮らしていても、土や風や他者の営みに、そして自分自身の営みに、生命の躍動を感じることがなければ、立っている場はアメリカ軍と変わりはしないのでしょう。 果たして僕たちは、どこに立っているのでしょう。

土に根を下ろしているのか。
風と共に生きているのか。
元来人に備えられた、恵みの事実を忘れてはいないか。
身体性や生きる実感というものを見失ってはいないか。
大地にしっかりと樹(た)っているのか。

 そういうもの抜きに、「平和だ」とか「国民のために」だとか「国益」などを語っても、それは滅びへの道≠ナしかないような、そんな気さえしてきます。
そんなこんなで、自分の薄っぺらな生き様を、問い直してみたりなどしている土曜の午後でありました。■