近頃は、核家族が増えました。家族と言うのは、本当に大切な関係ではありますが、近すぎて、甘えが出て、かえってややこしいことになることがよくあります。他人だと距離がある分、遠慮も配慮もありますから冷静な対応もできますが、これが親子になると近すぎて、逆に感情が剥き出しになってしまいます。「友達に言われたら素直に聞くことができるけれど、親に言われたら、逆に受け容れることができない」とか。「よその子だったらそこまで言わないけれども、自分の子どもだから余計に腹が立つ」とか。そういうことって、ありますよね。
昔は、一つの家に、たくさん人間がいましたから、その場その場でいろいろと役割が分担されていました。たとえば、お母さんに怒られたから、その晩はおばあちゃんの布団に潜り込んで寝るとか。家族だけではなくて、昔は近所のおじちゃんやおばちゃんとの距離が今より近くて、怒られたり、可愛がられたりということがありました。いろんな人間関係があるところでは、いろいろな形で役割が分担されていて、逃げ場もきちんと用意されていたわけです。ところが近頃はそういう場所がなくて、どうしても行き詰ってしまいます。何かクッションになるようなものが必要なのですが、核家族ですから他には誰もいません。では、そんな時にどうしたらいいのでしょう。
藤場俊基という先生は、「そんな時に、お仏壇があるではないか、阿弥陀様がおられるではないか」と言われています。お仏壇の前に座ると、間ができる。ちょっと冷静になれる。自分をふり返ることができる。人に言われたら腹が立つことも、阿弥陀様の前では「そうかもしれないなぁ」と素直になれる。そんな場所があるということは、人間が生きる上で本当に大切なことだと思うのです。
かくなる私も短気なものですから、カチーンとくると言わなくても良いことを言ってしまい、後悔の念にかられることがよくあります。いつも近くにお仏壇があればと思うのですが、なかなかそうもいきません。ですから最近は、心の中でお念仏を称えるようにしています。お念仏に心を鎮めさせるご利益なんてありませんが、「なまんだ〜ぶ、なまんだ〜ぶ」と称えると、間がとれて我に返ることができる。逆にお念仏を忘れると、やはり我を忘れてしまい失敗するのです。(坊守いわく。「忘れすぎなんじゃない?」トホホ。その通り。でも、お念仏やお仏壇がなかったらと思うと・・・、そっちの方がおそろしいですよね。)
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