浄土真宗において、お仏壇は単なる先祖を祀る場所ではありません。お仏壇というくらいですから、阿弥陀如来という仏様がおられなければ、そうとは呼べないのです。いえ、阿弥陀様がおられるからこそ、はじめてお仏壇と言えるのでしょう。私たちは、阿弥陀様を通して亡き人と出遇い、阿弥陀様を通して我が身を知らされるのです。では、阿弥陀様とは、どんな仏様なのでしょうか。
受け容れてくださる仏様
阿弥陀様とは、私の願いを適えて下さる仏様ではありません。手を合わせても、宝くじは当りませんし、家内安全、無病息災、商売繁盛にもつながりません。では、どんな仏様なのか。失敗しても、成功しても、病気であっても、齢をとっても、この私をそのままに受け容れて下さる仏様だと言えるでしょう。しかし、受け容れられることが、そんなに有り難いことなのかと、首をかしげられる方があるかもしれません。
これは昭和五十年代に書かれた、小学三年生の女の子の詩です。
「父ちゃん、母ちゃんとお金とどっちがええ?」
「そりゃ、かあちゃんさ」
「一億円でも?」
「うん」
「そんなら百億円でも?」
「うん。母ちゃんはお金にかえられない」
「ほんと?」
母ちゃんとけんかしておい出そうとしても
心ではやっぱりそう思っているんだな
わたしはうれしくなって
「やっぱり!」といって父ちゃんの肩をたたいてやった。
(『東井義雄一日一言』致知出版社刊)
「あなたは、お金にはかえられない。あなたは、かけがえのない存在だ。」と思ってくれる人があるということは、すごく幸せなことです。近頃は、「お金があれば何でもできる」などと言う人がいますが、それは「他にもっとお金を出してくれる人があれば、あなたでなくてもいい」という、《かけがえのなさ》を売り渡していくことでもあることに、気づいておられるのでしょうか。
「お金にはかえられない、かけがえのない存在」だと受け容れられる人生と、「お金がないのなら、お金がかかるのなら、あなたはもう用がない。」と、お金が《生きる資格》となっている人生とは、まったく違ったものになってくるはずです。
そして、阿弥陀如来のご本願とは、「あなたは、かけがえのない存在です。あなたが敬われ、尊ばれる仏にならなかったら、私は仏に成りません。あなたが、地獄に堕ちるなら、私も共に地獄に堕ちよう。」という願いです。私たちのことをかけがえのない存在だと受け容れて下さる阿弥陀様がおられることを、親鸞聖人は教えて下さったのです。
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