2025(令和7)年11月号 







 

現状報告

 ここのところ、ずっと入退院を繰り返しています。数えてみると、ここ五カ月で七十日くらいの入院になりますか。でも、体感は8:2くらいで、病院生活の方が長く感じています。

 とはいえ、悪くなっているわけではありません。癌は大きくもならず、転移もしていません。ただ先生としては、もう少し小さくなって欲しいということで、「この薬の方が合うのでは」と試行錯誤されるわけです。
 薬が変わると、副作用を見るために三週間入院が伴います。その後、一週間空けて二泊三日、一週間空けて二泊三日と薬を入れる短期入院を繰り返し、様子を見て。また薬を変えることになれば、三週間。その後一週間空けて…と続くわけです。

 正直、もう病院には飽きました。入院された経験のある方はお分かりになられるでしょうが、病院にいるだけで、病気になりそうです。やっぱり家はいいですね。今は、家の有難さをしみじみと味わっています。




 





 


 
メメント・モリ(死を思え)

 さて、近頃は薬の研究が進んだことで、がんの生存率は、昔よりかなり高くなっているようです。とはいえ、がんを告知されたことをきっかけに、頭のどこかでいつも死を意識しながら生きるようになりました。但しそれは、ネガティブな感情ではありません。

 ラテン語に「メメント・モリ(死を思え)」という言葉があります。この言葉について思想家の内田樹先生は、「当分オレは死なないだろう」と高をくくって暮らしている場合よりも、生きている時間の質が高まる。ひとつひとつの経験の意味が深まり、ひとつひとつの愉悦の奥行きや厚みが増す。生きることの深みや厚みや奥行きを味わい尽くしたいと願うなら、「死を思え」。そう理解していると言われています。
(『困難な成熟』内田樹)

 いや、本当にそうですよね。もしかしたら、これが最後の出会いになるかもしれないと思うと、この一時が愛おしくて。家族と話しながら、「あなたたちと出会えて、良かった」「あなたと出会えたからこそ、私の人生はこんなにも豊かだった」と感じられたり。そんなことって、普段は気恥ずかしくて素直に思えないし、口にも出すなんてとんでもない。ところが「死」をリアルに突きつけられると、意外や意外。素直に思えてくるのです。
 死を意識することが経験の意味を深め、愉悦の奥行きや厚みを増すという内田先生の指摘には、肯くばかり。ただ、死と向き合うには、やはりそれなりの段階が必要ではあるようです。

 



 
死の受容過程

 アメリカの精神科医であるエリザベス・キューブラー=ロスは、「死の受容過程」を五つの段階で示しています。

 現実を受け容れられず(「否認と孤立」)、憤りに捉われて周囲に怒りをぶつけ(「怒り」)、信仰心がなくても神仏に「助けて欲しい」とすがり(「取り引き」)、悲観と絶望に打ちひしがれ(「抑うつ」)、最終的に現実を受け容れ、心の平静を取り戻してく(「受容」)という過程です。ただし、この段階通りに辿って行くとは限らないようで、行きつ戻りつ葛藤を繰り返す人もあり、一方では、達観して早い時期に受容する人もいるのだとか。

 とはいえ、いくら頭で理解していても、現実を突き付けられると、大多数の人が狼狽えるのではないでしょうか。達観し、すぐに受容できる人の方がまれでしょう。ちなみに、「どうせ死ぬなら」と投げやりにふるまうことを、受容とはいいません。

 私の尊敬する宮城先生は、がんの告知を受けたときに、いろんながん患者の方の手記を読まれたそうです。ただ、最後まで力強く生きられた方の手記には「凄いなぁ」という思いと同時に、「私にはできないなぁ」という思いも持たれたといわれます。不安の中で、あっちに行ったり、こっちに行ったりと、よろめきながら歩まれた手記の方が、共感できたと。
 確かにそうだと思います。強い人の話は、参考にはなりません。だって、私は弱いから。行きつ戻りつ葛藤する人の方が、身近に感じます。こんなことを書くと、「いやいや、あんただって、私からみたら強い人だよ」と思われる人もあるかもしれませんが、いやいや、そうではないのです。私の場合は、次男の病気を経験していたこと、そして先輩の言葉を通して、もう一度お念仏の世界と出遇い直せたから、今受容できているのだと思います(第一回を参照)。

 つまり、すでによろめいた経験があるから、今このように受け容れられているわけで。だから、自分の弱さは織り込み済みなのです。もちろん、今でも不安はあります。これからまた、よろめくのかもしれません。そもそも、人生において不安はつきものですから。でも今の私には、立ち返る場所、確かな拠り所があるのです。だから不安になっても、不安ではありません(ややこしくて、すみません)。

 逆に不安に怯え、不安を消そうと過剰に反応することで、生きている時間の質は確実に低下します。そのことも、すでに私は経験済みなのです。

 


 
 


 不安には根拠がない

 実は、不安には根拠がない。そう指摘しておられるのが、東京大学大学院講師の舟津昌平先生です。「今日、家の鍵を閉めたかな」「もしかして、陰で笑われているかも」「私だけ、みんなに乗り遅れてるんじゃないか」。不安とは、ある時何の根拠もなく、ふっと思ってしまったことで起こるのだと。

 それは私たちの日常を支えるものが、根拠のない自信だからなのでしょう。事件や災害が起こる。「大丈夫だろうか」と不安になる。ところがしばらくすると、慣れたり忘れたりして「大丈夫だろう」と以前の日常に戻っている。どちらも、何の根拠もありません。根拠がないから、それが揺らぐと不安が起きる。そして時間が経てば忘れ、また揺らぐ。この連鎖は、いつまでも止まりません。それほど人間という存在が、愚かで弱いということなのでしょうか。


 実は舟津先生に、興味深い指摘があります。なんと、この「不安には根拠がない」という人間の本質を利用した商法が、昨今一般化しているのだと。
 例えば、ある就活(就職活動)仲介サービスの企業では、学生に「一回生の時から就活しましょうね。隣の友達が内定をもらっているのに、自分がもらっていなかったら嫌ですよね」と語りかけ、「私たちにご相談を」と、さも当たり前のようにアピールするのだとか。それを見た舟津先生は、「最近の企業は学生を脅し不安を煽ってでも、ビジネスチャンスを得ることに全く躊躇がない」ことに、愕然としたそうです。しかも近頃の学生たちにとって、友達から取り残されることは死活問題になっている。そんな現状を、きっちりリサーチした上で。
 消臭剤ビジネスも同様です。「あなたはクサいかもしれない」と不安を煽る。自分がクサいかどうかを知覚するのは難しいことですが、一旦「におうのではないか」と不安になりさえすれば、ずっと買ってくれる。
 
 とにもかくにも、彼らは物凄く顧客調査をしていて、人がどこを付かれると不安になるかを理解している。そして不安を利用して、需要を生み出している。不安には根拠がないから植え付けやすいし、煽りやすい。ビジネスにするにはうってつけ。この方法論は、誰もが聞いたことのある大手企業も、率先して取り組んでいるのだそうで。何とも、世知辛い世の中です。
(『Z世代化する社会』舟津昌平)


 

 

不安は消せない

 しかし死に関しては、確かな根拠があります。誰もが死から逃れられないことは、厳粛な事実です。それを私たちは、「当分オレは死なないだろう」「まだまだ大丈夫」と、根拠のない自信で誤魔化してはいないでしょうか。
 だから、自身が死を突き付けられたら、近しい人が亡くなったら、その自信が揺らいで慌てふためく。それがキューブラー=ロスが指摘する、「受容」までの四段階なのでしょう。
 しかも、自信が揺らぎ不安が起きた状況をビジネスチャンスとして狙っている人が多い時代に、私たちは生きているわけですから、これもまた恐ろしい。

 では、不安とどう向き合えばよいのでしょう。現代社会の多くの人は、不安は消すことが解決だと考えています。しかし残念ながら、誰もが不安から逃れられません。その上、どこを付くと不安になるかを研究した大手企業が、率先して煽っているわけですから、なくなるはずもありません。
 そして宗教の役割さえも、不安を消すものとして考えられてはいないでしょうか。しかし私は、親鸞聖人が指し示してくださった阿弥陀さまの教えによって、「不安は、消せないんだ」「消さなくてもいいんだ」と気づかされたのです。

 
 



確かな拠り所があるからこそ

 以前、友人の住職が、白血病で亡くなりました。彼は病気を告知された時も、その後の治療過程においても、現実を真正面に受け容れて、日々を精一杯生き抜こうとする人でした。そんな姿に、私は常々尊敬の念を抱いていました。その彼が亡くなる少し前のこと。久しぶりに会える機会がありました。

 その時彼は、こんな話をしてくれたのです。「周りから見たら、僕はいつも前向きに生きる、強い人間だと思われているかもしれません。でも、こんなボクでも、不安で眠れない時があるんですよ」と。
 骨髄移植を受けても、病状は一進一退。なかなか回復には至らない。「明日の検査は、良い数値がでるかな。また、ダメなのかな」、そんなことを思うと、大きな不安に襲われて眠れなくなる。不安は、また不安を呼び深まっていく。真っ暗な底のない闇に堕ちていくような感覚に、恐怖を覚える。自分自身が見失われ、ただただ否定的な考えしか思い浮かばない。前向きな言葉、立ち向かおうとする思いなんて、まったく出て来ない。

 「そんな時、フッと聞こえてきたんです。阿弥陀さまが受け止めてくださる。阿弥陀さまにおまかせするしかない。お説教で聞いた言葉が思い出された時、堕ちていく感覚が止まったんです。この拠り所があるからこそ、我に返ることができた。これが、どれほど有難いか。どんなに大きなことか」。

 彼は、不安がなくなったと言っているわけではありません。不安を抱えたままの私が、受け止められる世界と出遇えた。その時、地に足が着くように、我に返ることができた。この確かな拠り所と出遇えたよろこびを、語ってくれたのです。

 このようなことを書くと、「そもそも、仏さまや阿弥陀さまこそが「根拠のない」ものではないのか。結局は根拠のない自信で、誤魔化しているだけではないか」と言われる方があるかもしれません。
 しかし、私の先を歩んでくださる方の足取りは、確かなのです。不安の中で、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらも、受け止められる場所に立ち返り、我を取り戻していく。その歩みに、頼もしさを感じるのです。だからこそ、「目には見えなくとも、ここには確かな道がある」「この拠り所は確かだ」と知らされるのです。

 何より阿弥陀さまは、「不安を消さないとダメだよ」とは言われません。不安を煽ることもされません。人間である限り、不安はつきものだと認めてくださる。人間の弱さを、そのままに受け容れてくださる。だから私も、安心して不安になれる(やっぱり、ややこしいですね)。

 おまけに、この拠り所に立ち返るとき、生きている時間の質が高まるのです。ひとつひとつの経験の意味が深まり、ひとつひとつの愉悦の奥行きや厚みが増していくことを実感しています。

 
 



不安が歩みを生み出す

 ちなみに、真宗大谷派の僧侶・安田理深師は、不安こそが阿弥陀さまのはたらきだといわれました。根拠のない自信が揺さぶられ、不安が起こるからこそ、「これでよいのか」と自らを問い直す営みが始まる。自分の人生を見つめ直すことも、確かな拠り所を求めようともする。その歩みの背を押すものこそ、阿弥陀さまのはたらきであり、不安こそが阿弥陀さまそのものなのだと。

 今の私には、深く肯ける話です。確かに不安がなければ、自分の人生を問い直すなんて、なかなかしませんよね。哲学者のマルティン・ハイデカーは「不安は私たちを存在の根源的な意味の前に連れ戻すはたらきをする」といったとか。やはり、不安は消そうとするものではなく、向き合うべきものであり、確かなものを求めるよう背中を押してくださる、大切なご縁といただくべきだと思います。

 不安を通して、我を見失う人がいる。しかし、不安を通して、自分の人生と向き合い、自分の立ち返る場所を確かにする人もいるのです。
 よろめきながらも、確かな足取りで歩まれた方々の歴史が、死の現実を、そして自分の人生を受容する道を、私に指し示してくださっています。■