2025(令和7)年12月号 




 

現状報告

 これまで、入退院を繰り返しながら合う薬を探してきたのですが、未だ見つからないのが現状です。その為、これまでと同じような日々が続くことになりそうです。皆様にはご迷惑をおかけしますが、何卒宜しくお願い致します。
 若院は頑張ってくれていますが、まだ一年目。行き届かないことが多々あることでしょう。どうか御寛恕いただき、お育てください。

 今回、チャレンジする薬は、人によって副作用が酷い場合があると聞いていましたが、今のところ何とか過ごせています。とはいえ、だるさが続き、大好きな草刈りをする気にもなれません。もしかすると、今までで一番のしんどさかも。何とか、上手に付き合っていかねばと思う今日この頃です。



 





 

想定内の一年

 さて、人生には三つの坂があると言われます。一つめは「上り坂」、二つめは「下り坂」。そして三つめは「まさか」です。

 今年はまさに、「まさか」の一年でした。三月に肺癌を告知され、入退院を繰り返す日々。四月から若院が帰って来てくれて、法務を勤めてくれました。慣れない中、重責を背負ってくれた彼には、本当に苦労をかけたと思います。坊守も、しんどかったことでしょう。たくさんの方々にご心配やご迷惑をかけ、ご配慮をいただきましたが、特に二人には感謝しかありません。

 ただ、「まさか」の衝撃は、私には想定内のものだと感じています。「来るべきものが来たか」という感覚でした。次男の病気を通して、「まさか」は他人事ではないと経験したことは、大きな要因の一つです。そして何より、仏法を通して「人は老い、病み、いずれは死ななくてはならない」という厳粛な事実を聞かせていただいてきたことが、大きかったと思うのです。



 






 今年の夏の甲子園で、ベスト4に勝ち進んだ岐阜県代表・県立岐阜商野球部は、準々決勝で春のセンバツを制した強豪・横浜高校を撃破しました。二転三転した試合展開の中、県岐阜商ベンチでは、「想定内」「想定内」と選手たちが言い合っていたそうです。ピンチが来ても「想定内」。相手が意表を突く奇策を出しても「想定内」。逆転されても、大きくリードされても「想定内」。「いちいちビックリしていたら、持たない」から。

 なるほど、確かにそうですよね。「まさか!」「想定外のことが起こった!」と狼狽えるより、「想定内」「そういうこともあるよね」と受け止めた方が、冷静に対処できます。そして、「では、ここからどうすべきか」という発想になれますから。
 考えてみれば私も、仏法を学び、次男の病気を通して、「癌も想定内」と思えるよう育てられていたことに、気づかされました。だから今は、「では、ここからどうすべきか」を考えています。


 



 



 


 
老病死が、開く世界

 さて、私は長らく、年配の方から「歳をとったらつまらんねぇ」「何も良いことない」という声を聞く度に、「そんなことを言わんでください!」と言ってきました。
 
 もちろん若い頃とは違い、様々なご苦労があるでしょう。でも、「そんなこと言われたら、僕たちが、安心して歳を取れんじゃないですか!歳を取るからこそ、知らされることがあり、病気になるからこそ、見えてくることがあるはず。そんな大切なことを、私たちに教えてくださいよ」とお願いしてきたのです。


 実は、こんなことを言い始めたのは、私の尊敬する真宗大谷派の僧侶・宮城先生から聞いたお話がきっかけでした。
 宮城先生の先輩に、和田稠という先生がおられます。その和田先生が歳を重ねられていく中で、「宮城くん。私は最近、耳が遠くなってね。いやぁ、耳が遠くなるというのは、こういうことなんだね。面白いねぇ。歳をとると、初めて経験することばかりでね。面白いねぇ」と話されたというのです。

 私は、この話を聞いて「こんな歳の重ね方があるのか!」と衝撃を受けたことを、今でも覚えています。老いとは、それまで当たり前のようにできていたことが、できなくなってくること。目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、歩けなくなるように、一つ一つ奪われていくことだと考えてきた私にとって、「老い病むからこそ、知らされることがある」という生き方は、目から鱗が落ちるようでした。

 もちろん、長らく仏法を語られてきた立派な先生が、いざ自分の身の事実として老いや病いを突きつけられた時に、オロオロとされる。そんな姿も「人間って、こんなものなんだよ。お前も、他人事ではないぞ」と教えられるようで、有難く味わえます。名僧と名高い一休宗純や仙豪`梵も、辞世の言葉として遺したのは「死にとうない」と伝えられていますしね。
 でも、「こんな歳の取り方があるんだよ」と示してくださる人は、クリエイティブですよね。老いや病いの人生にも光が差してくるようで、ワクワクしてきませんか。



 お念仏に生きられ、念仏詩人と呼ばれた榎本栄一さんは、こんな詩を読んでおられます。
  「肉体はおとろえるが こころの眼がひらく
  人間の晩年というものはおもしろい
  今日まで生きて いのちの深さが見えてきた」

 すごい言葉だなぁと思います。私は正直、「いのちの深さ」なんて考えたこともありませんが、今の私には見えなくても、私のいのちにも「深さ」がある。そのことを喜びと感動と共に見つめられた方が、先を歩んでくださっている。これは、後に続く者にとっては、本当に有難く尊いことです。
 しかもそれが、老いを通して見えてくるとは。なんと、「想定外」の喜びなのでしょうか。だからこそ私は、年配の方々に「歳をとり、病むからこそ知らされる、大切なことを教えてください」と言ってきたのです。


 考えてみれば、私たちは何を「想定外」にしているのでしょう。老い、病み、死ぬことは、誰もが知っている「想定内」のはずなのに。その人間の事実から目を逸らし、「まさか」や「想定外」にしているのではないですか。本当の「想定外」とは、私にはまだまだ知らない驚きがあり、いのちの深さがあるということ。そして、老い、病み、死んでいくことをご縁に、今まで気づけなかった深く、豊かな世界に出遇った人たちがいることなのではないでしょうか。


 








 
輝きが消えた先に

 これは、若院が小学生の頃のお話です。
 北九州の科学博物館に、家族でプラネタリウムを見に行きました。プラネタリウムとは、人工の星空です。映画館のような真っ暗な場所で、天井に星が映し出され、「これがおうし座です、これがこぐま座です」といった説明が流れます。

 一通り説明が終わった後、「これが、今の北九州の星空です。それでは、街の灯りを消すとどんな夜空になるか、実験してみましょう」とアナウンスがあり、家の灯りや、外灯やネオンサインを消すと、どんな夜空が見えるのかという実験が始まりました。あくまでも、仮にそうしてみたら…というプラネタリウムでの企画なのですが。

 街の灯りが、一つ二つと消されていきます。すると、「きっと暗闇が広がっていくのだろう」と思っていた私の想定を超えて、今まで見えなかった小さな星の光で、満天の夜空が広がったのです。正直、驚きました。そして、「これは面白いなぁ」と目から鱗が落ちたように、感動したのです。

 街の灯りが消えたことで、小さな星が光り始めた…わけではありませんよね。街の灯りが明るすぎて、小さな光がかき消されていただけで、小さな星たちは輝き続けていたのです。昼間の星も同様です。太陽の光が明るすぎて見えないだけで、昼間も星は輝いている。それが、太陽が沈むことで見えてくるのです。


 これは私たちの人生にも、そして私と阿弥陀さまとの関係にも、重なるところがあるなぁと思ったのです。私たちは、自分の人生や生活を、輝かせようとして生きています。その為に、健康やお金や若さ、仕事や趣味やモノ、そして地位や名誉を求めている。でもその輝きは、歳をとり、病気になり、死を突きつけられる中で、一つ二つと手放さなくてはならなくなるものなのです。ちょうど、街の灯りが一つ二つと消えていくように。そうして、握りしめていた輝きがすべて消えると、後は真っ暗闇しか残されていない…、私たちはそう考えてはいないでしょうか。

 しかし、そうではないのです。それまでは、明るすぎる光で見えなかっただけで、私の目には見えなくても、この私を照らし続けてくださる光がある。私には想定外の、深くて豊かな世界は広がっているのです。

 



 



 


 親鸞聖人は、「よろずのこと みなもて そらごとたわごと まことあることなき」(『歎異抄』後序)と示されています。私たちが頼りにしていることは、いずれは手放さねばならないものなのだと。
 しかし、そんな輝きが消えた時、初めて見えてくる光がある。それが阿弥陀様の光です。そしてその光は、自分が元気でバリバリやっている時でも、照らし続けていてくださっている。気づけないのは、私の方に問題があるのだと教えられるのです。


 お念仏をよりどころに生き抜かれ、生涯を教育に捧げられた東井義雄先生は、「ご説法」という詩の中で、このように言われています。

  「老いの日には 老いの日にしか聞かせていただけない ご説法がある
  病む日には 病む日の ご説法がある/
  お天気の日にも 健康な日にも 大切なご説法があるのだが
  そういう恵まれた日には こちらの側に雑音がありすぎて
  どうも 聞きとりにくい」

 最後の部分が、特に刺さりますね。確かに、恵まれた日には雑音がありすぎて、わかりやすい大きな輝きに目を奪われ、本当に大切なことを見失っている私ですから。


 さぁ、いよいよこれから本格的に、握りしめていたものを手放さざるを得ない日々が始まります。同時に、雑音が減っていく日々も。どんな「想定外」に気づくことができるやら。実は、ワクワクしている自分がいるのです。榎本先生のように「こころの眼」が開くかな。せめて、いのちの深さの一端でも、味わえないかな。病む日だからこその、ご説法が聞こえてくるのかな。
 いやいや、想定外のみっともなさを、さらけ出すことがあるかもしれませんね。でもそのみっともなさも、阿弥陀さまにとっては想定内のことだと思うと、それはそれで一安心。そんな中で、「では、ここからどうすべきか」を考えてみようなどと考えています。


 でも「まさか」この私が、こんな風に病いを受け止めることができるとは。私を育ててくださった阿弥陀さまのみ教えと、その道を歩んでくださる先人たちのはたらきは、まさに「想定外」だといえるでしょう。■