2026(令和8)年3月号 




 

現状報告

 今のところ、元気に過ごしています。今回の薬は副作用が酷く、5キロくらい痩せたのですが、年末くらいから調子が良くなり、体重も戻り、すっかり元気になりました。心配していた、二回目の投薬後の副作用もなく、ホッとしています。ただ、薬が効いているかというと、こちらもあまり変わらずと言ったところ。とりあえず、様子を見ていくしかないようです。








人間死んだら終わり?

 さて近頃は、「人間、死んだら終わり」という人が増えました。同時に、「人間が死んだら、終わり」にする人も増えました。
 これはどういうことかと言うと、「自分が死んだら、葬儀はしなくていい」「墓もいらない」「もう忘れてくれていい」と、自分の人生を終わりにする人が増えたということです。もちろん、遺された人の気持ちは考えず。

 また、葬儀を終えると、すぐさま亡き人の人生を終わらせる人もいます。あたかも、その人が生きていた痕跡を消すかのように、お仏壇やお墓を終い、家を処分する。まさに、「人間、死んだら終わり」です。
 それぞれに事情がありますし、懸念事項を早く解決しておきたいのも、理解できます。私もせっかちだし、やるべきことはすぐに終わらせたいタイプだし。但し、スケジュールの消化だけが優先されると、大切なことがこぼれ落ちていきます。

 事実、そんな光景を第三者の立場から見ていると、「人生を、こんなに軽く扱って良いものなのか」と愕然とするのです。確かに、いずれは処分しなくてはならないことかもしれません。けれども、立ち止まり、振り返り、出会い直す営みは、人生を豊かにするための重要な時間だと思うのでです。何より、亡き人との思い出は、私の人生を形作る大切な一部。それを軽々しく処分することは、自分の人生も軽々しく扱うことになるのではないですか。


 加えて、「年を取ったら、終わり」「病気になったら終わり」と自分の人生を、いや他人の人生までも決めつける人もいます。そんな言葉を聞くと、病人の私などは「俺は、生きていいのかな」と、後ろめたさを感じてしまいます。

 このような有り様を、「自損損他」と言うのでしょう。これは、中国の高僧・善導大師のお言葉(『般舟讃』)で、自分だけではなく、他者をも損なう生き方を示されたものですが、まさに「死んだら終わり」「アイツは終わり」と自他を切り捨てる今の時代を表しているように思うのです。

 



 



 


目先のことだけで、決めつけてはいないか

 しかし切り捨てること、投げ出すことは、実は安易で簡単な選択なのです。なぜなら、苦難の人生だからと嘆き否定するよりも、苦難の人生にも関わらず、そこに豊かさを見出し肯定する営みの方が、はるかに困難で大変な作業なのですから。故に、「こうなっても終わりではない」と、もがきながらも歩む人に出会うと、これまでの私の枠組みが揺さぶられ、「人生とは何と奥深いものなのか」という驚きや感動が生まれてきます。
 同時に、「終わりだ」と安易に否定する人の言葉が、軽薄なものに聞こえてくるのです。「人生を簡単に決めつけるなよ」とも思います。

 私は人生の奥深さを、驚きや感動を、親鸞聖人の歩みから、そして同じくお念仏の道を歩まれた先輩方の後ろ姿からいただいてきました。そんな先達の一人、金子大栄という先生のお話をご紹介させてください。


 金子先生が若い頃、海岸を散歩していた時のこと。そこに、波が押し寄せました。岩場なのでしょうか。波の滴が、ぱっと飛び散りました。
 それを見ながら、若き金子先生は「無限の大海に比べれば、波の一滴は何と儚いものか。それと同じく私の一生も、波の一滴のよう儚く小さなものでしかないのでは」と、悶々としながら考えたそうです。

 ところがその後、様々な学びを経てフッと方向転換したのだと。どう転換したのかというと、波の一滴だけを切り取れば、儚く小さなものでしかない。けれども、大海のはたらきがあってこそ、波の一滴が生まれている。ならばこの波の一滴に、大きな海のはたらきが込められているのではないか。
 同様にこの私の一生も、今だけを切り取れば儚く小さなものかもしれない。しかし無量のいのちの歴史と、無限の広がりをもった世界があるからこそ、私の一生が今ここにある。つまりこの私の人生には、大いなる歴史とはたらきが込められている。そんな無限なる世界と出会うことで、自然と人生の重さも感じられることになるのではないか。そう転換したのだと言われています。
(『人間について』金子大栄)

 私の一生は、死んだらそれで終わっていくような、ちっぽけなものではない。細やかではあっても、この私には、大いなる世界のはたらきが込められている。いのちの連なりの中で、生かされている。そして私たちは、大いなる世界に帰っていく。何と、スケールの大きなものの見方でしょうか。

 考えてみれば、目先のことだけを切り取って、それですべてを量ろうとするから「死んだら終わり」と決めつけてしまうのではないですか。それは、安易で傲慢なふるまいです。世界はもっと大きくて、深い。私のちっぽけな考えで、決めつけられるようなものではありません。
 そんな大いなる世界に、頭を垂れる。大いなる世界からの呼び声に、うなずいていく。その営みを金子大栄先生は、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることだと言われています。

 元々、アミタという言葉は、量ることができない、無限なるものという意味です。また、かつてのインドの人たちは、「大いなるもの」を言い現わすときには、アミタということばを使っていたそうです。その大いなる世界にうなずき、手を合わせることが、自分のいのちの深さと広さと出会うことになるのだと。
 私たちは、そんな世界のはたらきを見失い、目先のことに捉われ、決めつけ、切り捨て合いながら生きてはいないでしょうか。

 









 
「自利利他」の道か 「自損損他」の道か

 がんという病気をいただき、死と向き合わざるを得ない状況にある私にとって、大いなる世界と出会われ、人生の奥深さと重さを味わう人びとの後ろ姿は、歩む力を与えてくださる確かな存在です。
 とはいえ、今や「死んだら終わり」と切り捨てる人の言葉が、数多く飛び交う時代。軽薄な言葉だと頭では理解していても、その言葉を聞く度に揺らぎ、不安になり、歩む力が削られる私もいます。

 ならば、私は誰の言葉を聞いているのか。世界をどう受け止め、どんな態度で生きているのか。どこに立ち戻るのか。これは、個人的なふるまいの話ではなく、他者にも影響を与えていく重大な問題だと言えるでしょう。

 仏道の目指すべき境地として、「自利利他」があります。自らの悟りが、そのまま他者の救いにつながり、他者のよろこびがそのまま自らの喜びとなる生き方です。そんな「自利利他」を希求するのか、それとも「自損損他」を選ぶのか。
 まさに、私たちの態度が問われています。揺らぎながらではありますが、歩む力が与えられる言葉をよりどころとせねば。などと思う、今日この頃です。■