2026(令和8)年4月号 







 

現状報告

 告知を受けて、一年が経ちました。
「ステージ4です」「もう、手術はできません」と言われた時には、「一年後どうなっているやら」と思いましたが、何とか元気に過ごせています。がんの大きさが一年前とほぼ変わっていないのは、薬が効いているからなのでしょう。とはいえ、予断を許さない現状に変わりはありません。

 ただ、この一年間の濃密な時間をふり返ると、がんと共に歩む人生もまんざらでもないのかも…などと思っています。そんなことを言うと、心配してくださる方々から怒られるかもしれませんね。でもそれだけ、「生きる」ということに対してぼんやりと過ごしてきた日々が、告知によって見直されたのは、私にとってとても大切な経験になっています。









人間の厳粛な事実

 さて昨年、薬の副作用で髪の毛が抜け、丸刈りにした際に「前住職とそっくりだ」という声を、数多くいただきました。「前住職とそっくりだ」という声を、数多くいただきました。二人とも耳が大きいのは一目瞭然ですが、頭の形がこんなに似ているとは。私も、正直驚いています。

 その前住職が、お浄土に往生させていただいて丸三年が過ぎました。有難いことに、最後まで家で看取ることができたのですが、まさに仏法で言われるところの「老病死」を、身をもって示してくれたように思います。

 あんなに元気だった人が、動けなくなり、立てなくなり、寝込み、意識がなくなっていく。下の世話もしてもらわなくてはならなくなる。そんな姿を通して、「いいか、お前もいずれは、こうなるんだ。必ず、老い、病み、死んでいかなくてはならない。これが、人間の厳粛な事実なんだぞ」と教えられている気がしたのです。


 そのことを友人の住職に話したところ、「そうそう。同じようなことを、この前先輩と話していたんだ。オレたちも、いずれは下の世話をしてもらう時が来る。しかも、相手は若い女性の看護師さんである可能性が高い。お前は、若い異性にお尻を拭いてもらう覚悟はあるか?せめて今から、その練習をしておこう」と言われ、確かにそうだと思い定めたのです。
 いざ、その場面が来た際、屈辱的な思いになるのか、それとも感謝の思いになれるのかでは、全く違いますからね。

 



 



 


 そして実は今回、その現実を突きつけられたのです。
 あれは、最初の抗がん剤治療で入院した時のこと。薬の副作用で、便秘に酷く悩まされたのです。私は、これまで便秘を経験したことがなかったので甘く見ていましたが、あれは本当にツラく、苦しいものでした。

 もう、ここにいるのです。その存在は確かに感じられる。けれども、動かない。どんなにいきんでも、全く出ないのです。下剤を飲んでも効き目はありません。焦りと共にその存在感は次第に大きくなり、鉛の玉が入っているようにも感じられ、それでも微動だにしない。これが精神的にも肉体的にも苦しいのです。

 追い込まれる中で、ベテランの看護師さん(とは言っても、私よりも確実に年下の方ですが)に訴えると、「では、浣腸しましょうね。はい、横になって。横向きに寝て、お尻出してください」と言われます。戸惑いを感じながらも、とにかく苦しいので流れに身をまかせると、あれよあれよという間に浣腸は入れられていきます。ところが、残念なことに効果はありませんでした。

 そこで看護師さんが発せられた言葉は、私の想像を大きく超えたものだったのです。
 「じゃあ、もうほじくり出すしかないですね」

 ほ、ほじくり出す?もしかして、指を入れて?驚く私に追い打ちをかけるように、ベテラン看護師さんのこんな言葉が聞こえてきました。

「ちょっと誰か、若い子来て!私の指は太いから、細い指の人、誰か来て!」

 冷や汗と共に、いよいよ来るべき時が来たと思いました。想定してきた場面が、とうとうやって来たのです。
 「じゃあ、私がやります」と若い女性の看護師さんが現れ、手袋を付け、躊躇いもなくお尻の穴に指突っ込み、ほじくり出す作業が始まりました。

 


   




 
その時、私は

 ではその時、私はどう思ったのか。
 意外や意外、「あぁ…これでオレは、一回り大きな人間になれた」と思えたのです。

 お尻の穴に指を突っ込んで、ウンコをほじくり出すなんて、される方も嫌ですが、する方はもっと嫌ですよ。でも、それをしてくださる人がいるわけです。しかも若い女性が、躊躇いもなくしてくださる。これはもう、感謝しかないでしょう。「仕事だから」「慣れているから」と言われる方もあるでしょうが、そんな仕事を引き受けてくださる方があること自体、有難く尊いことだと思います。

 そして同時に、人間の厳粛な事実に触れたような気がしたのです。偉そうに、立派なふりしていても、結局はそんな身の事実を抱えながらしか、私たちは生きていけない。でも私には、ここまでしてくださる方がある。私の事実を素直に受け容れたときに、広々とした心持ちになり、自分が一回り大きくなれたような気がしたのです。


 それを偉そうに、立派なふりをするからこそ、身の事実を突きつけられた時に受け容れられなくなるのでは。そして、自分で自分を惨めに蔑んでしてしまうのではないですか。
 それは、これまでそんな立場の人を馬鹿にしてきたからでもあるのでしょう。今まで馬鹿にしてきた立場の人に、自分がなる。これはツラいことです。でも、ツラいと思わせているのは、自分なのです。そんな思いに捉われていると、私のためにはたらいてくださる方の存在をも蔑み、見失わせてしまうことにもなりかねません。これは傲慢な生き方ではないか。そんなことを考えさせられたのです。


 



 


受け容れられた理由とは

 ではなぜ私が、身の事実を素直に受け容れることができたのか。それは、仏法を通して「老病死」の現実を知らされ、覚悟を決め、日々練習してきたからだけではありません。何よりも、阿弥陀さまとの出遇いによるものだと実感しています。

 阿弥陀さまは、どんな私をも選ばず、嫌わず、見捨てないと誓われた仏さまです。
 だから、下の世話をしてもらうくらい、屁でもない。お尻の穴に指を突っ込まれるくらいで、惨めになるなんて、逆に傲慢極まりない。
 そういう身の事実を抱えていることを承知の上で、それでもこの私を、かけがえのない尊い存在として、受け止めてくださる。等身大の自分が、丸ごと認められていく。そんな阿弥陀さまとの出遇いがあるからこそ、私も身の事実を受け容れられたのだと思います。


 気力、体力、経済力等々の条件が備わった自分しか認められない。つまり、条件付きの自分しか受け容れられないのであれば、条件から外れた自分は、惨めな存在でしかありません。そうなると、ダメな自分を受け容れられなくなる。そして、自分よりダメな人を探して、「アイツよりはマシだ」と見下すことでしか、自分を慰められなくなる。それは欺瞞に満ちた、虚しく寂しい生き方です。

 真宗大谷派の僧侶・金子大栄先生は、「落ちて着くから、落ち着くのですよ」と言われたとか。まさに、「落ちたら終わり」と思っていた先には、受け止めてくださる世界が広がっていたのです。このような世界に出遇えたからこそ、地に足を着けた、落ち着いた足取りで人生を歩むことができると、身を通して知らされています。








 

心はいつも下座にあれ

 念仏詩人と呼ばれた榎本栄一さんに、『下座―自分に―』という詩があります。

 「こころはいつも下座にあれ ここはひろびろ
 ここでなら なにが流れてきても そっと お受けできそう」

 榎本さんは、「下座とは一番地べたに坐っておる気持ち」だと言われています。高いところで、自分の力以上のものを持たされたら腰を抜かす。でも、地べたでどっかと坐っていたら、自分の体重以上のものがきても、そしてどんな自分であっても、安心して「はい」とお受けできる。
 少し高いとこにいたら、いくらかでも下へ落ちるけれども、下へ落ちるところがないところが、自分の安息の場所で一番いいところではないかと
(NHK教育テレビ「こころの時代」平成四年三月二十九日放送)
 そして、その下座とはまさに、等身大の私を丸ごと受け止め、尊んでくださる阿弥陀さまの世界なのだと教えられるのです。


 やはり人は、どんな自分をも受け止められる世界と出遇うからこそ、どんな自分でも受け容れることができるのでしょう。そして、どんな自分をも受け容れることができたとき、思いもよらない豊かな景色が広がってくるのです。同時に、自分がどれだけ狭くて小さなものの見方に捉われていたのかをも、知らされるのです。

 このような世界と出遇っているかどうかで、人生の質は明らかに変わる。そのことを、先を歩む人の後ろ姿に導かれ、阿弥陀さまの呼び声であるお念仏に支えられながら、実感する毎日を送っています。■