2026(令和8)年6月号 




現状報告

 相変わらずと言っていいのかわかりませんが、元気に過ごしています。三週間に一度、薬を入れるために二泊三日の入院をするくらいで。
 ですから、会議に出たり、お説教に行ったりと、少しずつ色んな活動に復帰しています。このままの状態が続けば良いのですが。
 とりあえず、様子を見ながらという段階も、相変わらずと言ったところです。





チューニングする場

 さてさて、私が学生の頃『不良少女とよばれて』というドラマがありました。その主演を勤めたのが、アイドルのいとうまい子さん(住職と同い年です)。彼女はその後も、タレントや実業家などマルチに活躍されているのですが、2025年から大学教授という肩書が加わりました。教えるのは、ヒューニング学。これはヒューマンチューニングの略で、新しい分野の学問なのだそうです。

 例えば、楽器はチューニング(調整、調律)しないと良い音は出ません。人間も一緒で、悩んだり困ったりしたときに立ち返る場所を確認し、調整、調律しないと、本来の力を発揮することが出来ないのではないか。そのチューニングを、スキルとして身につけようというもの。それがヒューニング学なのです。
面白そうな学問ですよね。でもよくよく考えれば、私にはすでにありました。チューニングする場が。それこそが、手を合わせ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える営みなのです。

 
 



 
南無=よりどころとする

そもそも、「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、インドの言葉「ナマス」を音写した(読みを、漢字に当てはめた)もの。意味としては「帰依」になります。

 「帰依」とは「よりどころにする」ということですが、「よりどころ」という言葉って、最近はあまり耳にしませんよね。でも、「心のよりどころ」と言うと、イメージがはっきりするのではないでしょうか。支えとなるもの、頼りにするもの、判断の根拠となるものが「よりどころ」です。

 ですから「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀さまをよりどころにして、生きていきます」という意味になります。そしてこれを、私なりに具体的な表現をすると、「阿弥陀さまのお心を中心にして生きる」「阿弥陀さまと相談しながら、人生を歩む」になるかと思います。

 ちなみにこれは、妄信や現実逃避とは違います。自分の人生に向き合い、より良く生きるための指針を持つことです。だから浄土真宗では、お念仏を称えたら「願いがかなう」とか「お金が儲かる」なんてことは言いません。それは自分の思いをよりどころにし、欲望をかなえる道具として阿弥陀さまを扱う態度です。あくまでも阿弥陀さまを指針にして、自分の生き方をふり返る営みが「帰依」なのです。

 






阿弥陀に南無せよ


 同時に親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀に南無せよ」、「私をよりどころとしなさい」という阿弥陀さまからの呼び声でもあるのだと教えてくださいました。私が称える念仏を、そのまま阿弥陀さまからの呼び声として受け止めなさいと。
 
 これも私なりに表現するなら、「あなたは、何をよりどころにしているのですか」と問われるということかと思います。
 たとえそれが事実だとしても、自分にとって都合の悪いことから目を背けてしまうのが、私たちではないでしょうか。そうして、あっちやこっちにフラフラし、何をよりどころにしているのかを見失ってはいませんか。そんな私に、「あなたは、何をよりどころにしているのですか」と問いかけられる方がある。「私をよりどころとしなさい」と、受け止めてくださる声がある。それが、「南無阿弥陀仏」というお念仏なのです。その呼び声が、私を落ち着かせ、等身大の自分に立ち返らせてくださるのです。

 がんになった。そのことに慌てふためき、フラフラする私。でも、「人間は必ず老い、病み、死ななくてはならない」ことは、誰もが知る事実ではなかったか。その現実から逃避していたから、今慌てふためくのだと知らされる。
 そして、そんな私のためにこそ、生と死を超えて受け止めてくださるお浄土が用意されている。ただ、死んで終わっていく人生ではない。私には帰っていく世界があると、気づかせてくださる。

 受け止められる世界との出会いが、落ち着きを生むのです。不安になるのは、確かさが感じられなくなり、足元がおぼつかなくなるからではないですか。落ち着く場が明らかになるから地に足が着き、人生の歩みも確かなものになる。「なるほど、そうか」と我に返り、事実を受け容れられる。そこからまた、歩み出すこともできるのでしょう。

 


 


よりどころ≠ェはっきりするからこそ

 ちなみに「帰依」の帰という字を、親鸞聖人は「至なり」「帰悦なり」「帰税なり」(『教行信証 行巻』)と示されています。
 これを、真宗僧侶の山本仏骨先生は「至るとは落ちつく」「帰悦とは安堵ができる」「帰税とは強い心のささえができて、動揺しなくなる」ということだと言われています。
(『人生の眼と足』)

 心のささえ、よりどころがはっきりするから安堵し、動揺しなくなる。それでも時には不安になり、フラフラすることもありますが、「フラフラする私の本性を承知の上で、阿弥陀さまは受け止めてくださるのだ」と知らされ、また我に返ることができる。
まさに、私にとって「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える営みは、等身大の自分に立ち返り、我を見つめ直し、チューニングする場なのです!

 とは言え、自分にとって都合の悪いことを受け容れるのは、やはり困難なこと。けれども、どんな私でも受け止めてくださる阿弥陀さまの前では、背伸びしたり、卑屈になる必要もない。他人と比べることも、周りの目を気にすることも、強がることや弱さを隠すこともしなくていい。自分は自分でしかないという現実にうなずき、素直に頭が下がる。地に足が着く。だから愚かさや弱さにも、病気や死にも安心して向き合い、歩み出す勇気がいただけるのです。








 


なるほど、そうか≠ニいううなずきが

 最後に、私の大好きなエピソードを紹介させてください。

 あるお寺の法座の後、ご門徒のおばあさんがご住職に「今日は、本当に有り難いお話を聞かせていただきました」と挨拶されました。続けて世間話になり、いつしか話題はお嫁さんの悪口になったのです。さっきまで「有り難いお話を」と言われていたのに…と苦笑いしながら聞いておられたご住職。
 ところがしばらくすると、おばあさんはハッと我に返ったように「本当の私が出てしもうた。本当の私が出たところで、帰らせてもらいます」とつぶやき、立ち去っていかれました。ご住職はその後ろ姿に、長年仏法を聴聞してこられた凄みを感じられたそうです。

 私たちは人間ですから、愚痴も出るし、悪口を言うこともある。しかしおばあさんには、自分に立ち返り、我を見つめ直し、チューニングする場がありました。「なるほど、これが常々聞いてきた私の姿か」と、素直にうなずける。卑屈になることもなく、冷静に等身大の自分を受け容れられる。それはやはり、「南無阿弥陀仏」という確かなよりどころと出遇っておられるからでしょう。

 曽我量深という先達は、「なるほど、そうか≠ニいううなずきを知っている人は、広い世界をゆうゆうと生きていける。なるほど≠ニいう世界を知らない人は、せまい世界を肩いからせて生きていかねばならない」と言われていたとか。
 やはり肩いからせて強がって、弱さや不安を隠す生き方は、しんどく虚しいものです。確かなよりどころと出遇われた先達が、そのゆうゆうとした後ろ姿で、今の私を導いてくださっています。■