2013(平成25)年10月  







クイズをひとつ。「既に造った罪」(巳造業)と、「これから造る罪」(未造業)どちらが怖いでしょう。答えは「これから造る罪」だと、仏教ではいいます。なぜなら、「次の瞬間、どんな自分が飛び出してくるのかわからない」からです。どんなに悪いことでも、既にしてしまったことは一つの形、限定をもっています。しかし、これまでどんなに立派なあり方を誇ってもいても、「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいをもすべし」(歎異抄)、縁があればどんなふるまいをしでかすかわからないのが私たちなのだと、教えられるのです。

 二〇〇三年、長崎県佐世保市で、十二歳の少年が四歳の少年を殺してしまうという事件がありました。当時、うちの子どもが三歳と五歳でしたから、怖ろしさに身震いしたことでした。
 その際、ある大臣が「加害者の親は、市中引き回しの上、打ち首にすればいい」という発言をされました。賛同する意見も多数あったようです。勿論、同じ歳の子どもを持つ親として、被害者の親御さんがそんな思いを持つことは、わからないではありません。


しかし同世代の子どもを持つ私たちは、被害者の親になる可能性もあれば、加害者の親になる可能性も持っているのです。だから、「うちの子は大丈夫だろうか」という不安を抱きながら、「俺の子育ては、これでいいのか」と、悩んだり、口ごもったりしているのです。テレビの時代劇ではあるまいし、「引き回しの上、打ち首」ではすまない問題だからこそ、立ちすくんでいるのです。根はもっと深いところにあるはずなのに。それに向き合うこともなく、表面だけで決めつけても「一件落着!」とはいかないから世の親は悩んでいるのです。大臣の発言は、安易な爽快感を求めているようで、不快な思いさえしました。


当時、加害者の通っていた中学校には、生徒に対する嫌がらせや暴行が相次いだそうです。どうして、同級生がそんな目に会わなくてはならないのでしょう。加害者を生み出した学校は、「市中引き回しの上、打ち首」にされても仕方がないとでも言うのでしょうか。ならば、加害者を生み出すような国の政治家も、教育者も、そして同じ国に住む私もあなたも、打ち首にされなくてはならないでしょう。
 しかし十年たった今でも、同様の事件が起こる度に、周囲を巻き込んだマスコミの吊るしあげ、断罪、市中を引き回すような報道が、数多くされています。それを求める人が多いということなのでしょうか。
 イジメていいヤツを見つけて、みんなでよってたかってイジメているような気がするという声もあります。子どもたちは大人の姿を観て育つのですから、自分の姿がどんな影響を与えているのかも、考えなくてはなりません。

薄っぺらな正義感で自分を振り返ることもなく、被害者の感情に便乗し、新たな被害者を生み出していく。いや、もしかすると、新たな加害者を生み出しているのかもしれません。それは被害者のためでも、社会のためでもなく、自分の爽快感を求めている姿でしかないのでしょう。
 自分が正義の立場にいると思い込むことで、どれだけ人を傷つけ、深い根を育てていることも気づかない。気づかないから、ブレーキも効かない。自分の安易な爽快感に、被害者を利用しているのであれば、迷いの深さは相当なものです。私は、そう指摘する私は、一体どこに立っているのか。よくよく、見つめなくてはならないでしょう。



 親鸞聖人が生きておられた時代は、人々は奪い合い、騙し合い、時には殺し合いながら生きていました。しかし親鸞聖人は、「何と残酷な奴らか」と見下すようなことは、決してされませんでした。「人間とは、縁に触れれば何と怖ろしいことをしでかす存在なのか。そして、この私もその人間の一人なのだ」と、自らの姿をそこに見出し、共に救われる道を求められたのです。

次の瞬間、どんな自分が飛び出てくるのかわからない。そして自分が正義の立場にいると思う時、どんなに怖ろしいことをしても気づきもしない。そんな油断できないのが、私である。親鸞聖人は、阿弥陀如来の光に照らされる中で、深く、そして重く、自分の姿を見つめられ、そう言われたのです。そのことに頭が下がるかどうか。それだけでも、世界との向き合い方は大きく変わってきます。■