近頃は、人生を輝かせる方法や言葉に関する本がたくさん出ています。自分の人生を輝くものにしたい!それは、誰もが持っている思いではないでしょうか。しかし、輝かせようとするほど、見えなくなるものがあります。それは自分の陰です。輝きを放とうとするほど、周りの陰は見えても自分の陰が見えなくなります。それと同じように、自己主張し、自己実現を求めるほどに、人のアラは見えるのでしょうが、自分の醜い部分、弱い部分、そしてそんな自分を支え、生かしめて下さる世界、は見えなくなってしまうのではないでしょうか。
源信僧都の『往生要集』に、浄土、阿弥陀仏国に生まれようとするものが、その途中に執われてしまう迷いの世界、懈慢界のことが書いてあります。それは床が七つの宝で飾られている世界なのですが、その国に生まれた者が東を見ると、その視線よりも早く七宝の床が東に、北を見れば北にと床が回り込むのだというのです。
それは床が回り込むのではなく、自分の都合よく見たいのだけを見、見たくないものから目を逸らす者の生きる世界をあらわしています。陰から目をそむけ、輝く部分だけを見て、うっとりと満足する世界。往くべき方向を見失い、座り込んでしまう世界。それが懈慢界なのだと教えられるのです。
これは、どこか遠いよその世界の話ではないのでしょう。自分の人生を輝かせようとする中で都合のよい部分ばかりを主張して、私を輝かしめる陰の部分から目を背けて生きる現代社会の有り様が、そのまま描かれているように思えるのです。
人生を輝かせる方法の中で、よく目にするのが「自分の本当にやりたいことをする」というものです。そして、「自分の好きなことを見つけよう」「やりたいことを探そう」ということが、学校をはじめ、様々なところで言われています。ところが、それが行き過ぎて「嫌いなことはやらない」「やりたくないことはやらない」という考え方にまで及んでいるのではないでしょうか。
やりたくなくても大切なことはあるのです。そういう部分を担って下さる方があるからこそ、私たちの生活は支えられているのです。陰のところで私たちを支えて下さる方々に、感謝することも、大切にすることも、いや気づくこともない生き方とは、薄っぺらで心貧しい生き方です。
それどころか、陰の生き方を馬鹿にし、足蹴にしているのかもしれません。黒澤明という映画監督に「高い木に登って、自分のまたがってる木の枝を一生懸命切っている阿呆」という言葉がありますが、自分を支えて下さる世界を大切にしようともしない阿呆になってはいないか。ドキッとさせられる言葉です。
自分が、どんな生き方をしているのか。どんな世界に支えられているのか。それは、私を照らして下さる世界に出遇うことがなければわからないのです。
親鸞聖人は、
「煩悩に眼さえられて 摂取の光明見ざれども
大悲倦きことなくて 常に我が身を照らすなり」
と言われています。煩悩に覆われて見ることはできないけれども、阿弥陀如来の光は、常に常に私たちを照らして下さっている。「倦(ものう)きことなく」とは、厭きることなくという意味です。私が、忘れていても、背いていても、厭きることなく照らし続けて下さっている世界がある。
そんな世界に気づかされていくことが、自分の人生を、周りの人の人生をより豊かに尊くいただいていく生き方を開いて下さるのです。■
|