2024(令和6)年11月

 自分がしたことで、人が喜んでくれる。これは人間にとって、大きな喜びの一つではないかと思います。いやもしかすると、実は一番根源的な喜びなのかもしれません。
 反対から考えてみると、よくわかります。相手を思ってしたことで嫌がられたら、とても残念な気持ちになりますよね。気づいてもらえなかったら寂しい気持ちになりますし、無視されたらとても傷つきます。次第に、居心地も悪くなってきます。

 でも、自分のしたことで笑ってくれたなら、自分の存在が認められたような気がして、そこに私の居場所が生まれてきます。この実感は、生きる上でとても大切なことだと思います。
仏教ではお釈迦さまの時代から、宗教的実践の基本として特に強調されたものが「慈悲」でした。

   「あたかも母が己の独り子をば身命を賭けて護るように、一切の生きとしいける
    ものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。全世界に対して無量の
    慈しみの心を起こすべし」(『スッタニパータ』149-150偈)

というお釈迦さまの言葉もあるように、あなたの笑う顔を見るために、慈しみの心とアクションを起こすのが、仏教の基本姿勢です。それは同時に、「あなたが笑うと私はしあわせになる」という喜びが、人間の根源的な喜びであるからだとも思うのです。







 

 ただしこの喜びには、とても危険で、しかもやっかいな落とし穴が潜んでいます。
 一つ目は、「自分が喜ぶために、相手を利用してしまう」という落とし穴です。例えば、政府広報オンライン『被災地を応援したい方へ 災害ボランティア活動の始め方』には、

    「被災者への心配り」を忘れず、自分の経験による判断を押し付けず、
     被災者の気持ちや立場に配慮し、被災者中心の支援を心がけましょう。

という文章があり、しかもわざわざ下線を引いて強調されています。やはり、被災者の気持ちや立場よりも、自分の思いを押し付けるボランティアの有り方が、多々見られるということなのでしょう。自分の喜びや満足感を、つい優先してしまう。結果的に相手の自律性を奪い、依存性を高める状況を作ってしまう。あたかも、過保護な子育てのように。このケースは、福祉や介護の現場でも見られるようです。

 二つ目は、助ける側が上で、助けられる側が下だという感覚に陥りやすいということ。実際には、助けている側が、助けられる側から精神的に支えられているケースなんて幾らでもあるのですが、安易にそう受け止めてしまう。すると、助ける側には優越感が、助けられる側には劣等感が生まれてくる。そこに、本当の笑顔はありません。

 もう一つには、「相手を喜ばせることができない自分には、価値がないと思ってしまう」という落とし穴です。特に近頃は、「役に立つ」「生産性がある」ことが、生きる資格のように語られています。相手を喜ばせることができない自分は、人の役に立たない自分は、生きる資格も価値もない。そう思わせるようなプレッシャーが、社会を覆っている時代です。
 でも、「喜び」と「資格」(生きる資格というものが、本当にあるのかどうかを含めて)は、次元が違う問題のはず。同じところで語ってはなりません。何より、人間はそもそもすれ違うもの。上手くいかないことが多いのが、大前提。だからこそ、安易に自分の思いを押し付けてはならないし、思いが通じ合った時の喜びも大きいのでしょう。
 今あげた三つ以外にも、まだまだ落とし穴はありそうです。相手に喜んでもらうことは、本当に難しい。だから仏教は、真実の慈悲を実現するには、真実の智慧が必要だと説くのです。

 しかし、落とし穴を警戒することで、何もできなくなる人も出てきます。「偽善者だ」とか「どうせパフォーマンスだろう」と、悪意に満ちた言葉を投げかけられ、心が折れる人もいます。では、真実の智慧が無い私たちは、どうすれば良いのでしょうか。








 
 ならば、まずは反対から考えてみてはどうでしょう。「あなたが笑うと、私がしあわせになる」のなら、逆に言えば、私の笑顔にも人をしあわせにする力があるということです。私が感謝することで、人を喜ばせることができるのです。

 少年ジャンプで連載中の漫画『ワンピース』の主人公ルフィに、こんな名言があります。
    「俺は○○ができねぇ。△△もできねぇ。
     俺は、助けてもらわねェと、生きていけねェ自信がある!」

 これは、わがままな言葉ではありません。感謝の言葉です。「私には、できないことがある。あなたのお陰で私は生かされている。あなたがいてくれて、うれしい。ありがとう」。こんな言葉をかけられたら、どうですか。シビれますよ。私は必要とされている。私は求められている。私はここにいていいんだと思えます。
 逆に「アンタがいなくても、オレは生きていける。アンタがいてもいなくても関係ない」と言われたらどうですか。ガックリきます。存在を否定されたようにも、感じられます。
 やはり、「有難う」という感謝の言葉は人を生かす言葉なのですね。ただ、その感謝の言葉が言えるようになるには、していただいていることに気づくアンテナやセンサーを育てなければなりません。向けられている慈しみや恵みを、当たり前のように受け止めていたら、そこに感謝は生まれないのですから。

 




ちなみに、「拾」という漢字があります。この字は、「手へん」に「合わす」で構成されたもの。つまり、「手を合わす」と書いて「拾う」と読むのです。ここには、とても深い味わいがあるように思われます。手を合わすという営みは、お願いしたり、求めたりするのではなく、「今すでに恵まれてあるものを、拾って歩む」ことなのだと味わえるのです。喜びはすでに与えられていて、たくさん転がっている。それを一つ一つ「拾って」確かめる。つまり喜びとは、与えられることを待つものではなく、こちらが気づいていくものなのだと。そして手を合わせ、仏法を聞くことで、喜びに出会うセンサーやアンテナを育てられるのだと、教えられるのです。

 「お念仏する者には、この世の最後まで仕事がある」と言われた方がありました。その仕事とは、お礼を言うことなのだそうです。なぜならお念仏を称え、阿弥陀さまのお心をいただくことは、私を支えてくださる世界と出遇うということだから。「これほどまでに、私は大切に思われていたのか」と目覚め、頭が下がり、お礼を申さずにはおれなくなるから。しかも、このお礼を言うことほど尊い仕事はないのです。なぜならこの仕事は、周りに笑顔を、しあわせを生んでいくものですから。何より、どれだけしてもしすぎる事はなく、すればするほどまだまだ足らぬ事が知らされるほど、奥深いものでもあるのです。

 人生を通して、お念仏申し、喜びを拾っていきましょう。私は「あなたが笑うと、私がしあわせになる」と思ってくださる方々に、囲まれているのです。そして、こんなにも尊い仕事をいただいていることに、また感謝させていただきたいものです。■