考えてみれば、昔は一日中開いている店なんてありませんでした。今では、ちょっとした都会なら200メートルおきぐらいにコンビニがあり、24時間年中無休で営業しています。インターネットも普及し、スマホもあって、便利で快適で、たくさんの娯楽に囲まれて。これほどのサービスが日本全国行き渡っている状況は、過去どの時代にもありませんでした。現代の私たちの生活水準、便利さは、かつての王侯貴族と変わらないか、それ以上だと言う人もいます。まさに私たちは、昔の人から比べれば、天界のような生活をしているのです。にも関わらず、みんな幸せに暮らしているかというと、どうもそうではなさそうで。それどころか、「昔は良かった」という人さえいます。なぜなのか。
一つには、どれほどのモノやサービスに囲まれても、私たちは慣れてくると当たり前に感じ、喜びも感動もなくなるからだと言えるでしょう。そして「便利で快適」の基準が上がるほどに、不快な思いに耐えられなくなる。小さな物音を騒音と思い、少しの汚れが不潔に感じる。大らかさは失われ、被害者意識ばかりが強まって、クレームと愚痴ばかり。不寛容で殺伐とした時代になりました。
そしてもう一つは、失うことへの不安ではないでしょうか。私たちは、手に入れたものが大きいほど、失うダメージもまた大きいのです。例えば、今私たちの生活から、インターネットやスマホといった通信手段、自家用車や電車といった移動手段が無くなったら、どうでしょう。「昔は、そんなものはなかったから、生きていくことはできるよ」と言われても、一度手に入れてしまったら、もう失った生活なんて考えられません。
生活水準が上がり、当たり前の基準が上がるほど、失った時のダメージは大きい。そう考えると、快楽が極まりない天界において、失う時の苦しみは地獄の十六倍以上といわれるのも、うなずける話です。
ちなみに、近頃は貧困問題が語られますが、貧困といっても「絶対的貧困」と「相対的貧困」があるといわれます。「絶対的貧困」とは、人間として最低限の生活が満たされない、つまり日常の暮らしに必要なものを手に入れることができない環境にあるということです。それに対して「相対的貧困」とは、自分の住んでいる国・地域社会で暮らす人々の水準と比較して、大多数よりも貧しい生活を送っている状態を指します。「絶対的貧困」に比べたら「相対的貧困」なんて…と思いきや、そんな甘いものではないようです。当たり前の基準値が高い社会で「自分だけはそうではない」「取り残されている」と感じる苦しみ、劣等感や不安は、かなり大きな精神的ダメージがあるということなのでしょう。「贅沢な話だ」という一言では解決できない、深刻な問題なのです。
何より『往生要集』には、「天界は快楽が極まりないが、その命が終わる時には、頭上の華の髪飾りがしぼむなど、五つの衰えの相が現れる。その相が現れるやいなや、今まで親しくしていた天人たちが、遠く離れていってしまう。それはまるで雑草が捨てられるようだ」と説かれています。つまり天界は、衰えると同時に、周囲から見捨てられていく世界でもあるのです。これもまた、現代社会そのままではないですか。健康で無くなったら、お金が無くなったら、役に立たなくなったら…。見捨てられていく不安と恐怖、そのプレッシャーが私たちの社会を覆っている。これが「思い通りになる」世界を作ろうとした結果なのかと思うと、切なさばかりがつのります。
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