2024(令和6)年2月



 仏教では、「人生は苦である」と説きます。なぜなら、人生は思い通りにならないから。

その代表的なものとして語られるのが、四苦といわれる「生老病死」です。私たちは、生まれも選べないし、必ず老いねばなりません。病気にもなるし、いずれは死ななくてはならない。いつまでも、若く健康で、長生きしたくても、そうはいかない。そんな思い通りにならない現実を抱えている。にもかかわず、思い通りにしたいと考えるから、苦しみが生まれる。つまり仏教では、自分の思いが自分を苦しめることを、そして自分の思いが強いほど、苦しみもまた強くなることを指摘しているのです。

ところが私たちの社会は、様々な研究・開発を重ね、「思い通りになる」世界を作ろうと試みてきました。そして便利で快適な世の中になり、思い通りになることも増えました。しかし、苦しみは減ったかというと、どうなのでしょう。もちろん減った苦はありますが、新たな苦もまた生まれているのではないでしょうか。私たちが満たそうとしている「思い」って、何なのでしょう。目の前の快楽ばかりを求めているのではないでしょうか。

仏教には、「天界」という世界が説かれています。源信和尚という方が書かれた『往生要集』には、「天界は快楽(仏教では「けらく」と読みます)が極まりない」とあります。さぞ良いところかと思いきや、そこは迷いの世界なのです。そして天界では、その命が尽きる時に「地獄の苦しみなどその十六分の一にも及ばない」ほどの大苦悩を生じると書かれています。私たちが求める理想のような世界なのに、これは一体どういうことなのでしょう。




 




考えてみれば、昔は一日中開いている店なんてありませんでした。今では、ちょっとした都会なら200メートルおきぐらいにコンビニがあり、24時間年中無休で営業しています。インターネットも普及し、スマホもあって、便利で快適で、たくさんの娯楽に囲まれて。これほどのサービスが日本全国行き渡っている状況は、過去どの時代にもありませんでした。現代の私たちの生活水準、便利さは、かつての王侯貴族と変わらないか、それ以上だと言う人もいます。まさに私たちは、昔の人から比べれば、天界のような生活をしているのです。にも関わらず、みんな幸せに暮らしているかというと、どうもそうではなさそうで。それどころか、「昔は良かった」という人さえいます。なぜなのか。

一つには、どれほどのモノやサービスに囲まれても、私たちは慣れてくると当たり前に感じ、喜びも感動もなくなるからだと言えるでしょう。そして「便利で快適」の基準が上がるほどに、不快な思いに耐えられなくなる。小さな物音を騒音と思い、少しの汚れが不潔に感じる。大らかさは失われ、被害者意識ばかりが強まって、クレームと愚痴ばかり。不寛容で殺伐とした時代になりました。

そしてもう一つは、失うことへの不安ではないでしょうか。私たちは、手に入れたものが大きいほど、失うダメージもまた大きいのです。例えば、今私たちの生活から、インターネットやスマホといった通信手段、自家用車や電車といった移動手段が無くなったら、どうでしょう。「昔は、そんなものはなかったから、生きていくことはできるよ」と言われても、一度手に入れてしまったら、もう失った生活なんて考えられません。

生活水準が上がり、当たり前の基準が上がるほど、失った時のダメージは大きい。そう考えると、快楽が極まりない天界において、失う時の苦しみは地獄の十六倍以上といわれるのも、うなずける話です。

ちなみに、近頃は貧困問題が語られますが、貧困といっても「絶対的貧困」と「相対的貧困」があるといわれます。「絶対的貧困」とは、人間として最低限の生活が満たされない、つまり日常の暮らしに必要なものを手に入れることができない環境にあるということです。それに対して「相対的貧困」とは、自分の住んでいる国・地域社会で暮らす人々の水準と比較して、大多数よりも貧しい生活を送っている状態を指します。「絶対的貧困」に比べたら「相対的貧困」なんて…と思いきや、そんな甘いものではないようです。当たり前の基準値が高い社会で「自分だけはそうではない」「取り残されている」と感じる苦しみ、劣等感や不安は、かなり大きな精神的ダメージがあるということなのでしょう。「贅沢な話だ」という一言では解決できない、深刻な問題なのです。

何より『往生要集』には、「天界は快楽が極まりないが、その命が終わる時には、頭上の華の髪飾りがしぼむなど、五つの衰えの相が現れる。その相が現れるやいなや、今まで親しくしていた天人たちが、遠く離れていってしまう。それはまるで雑草が捨てられるようだ」と説かれています。つまり天界は、衰えると同時に、周囲から見捨てられていく世界でもあるのです。これもまた、現代社会そのままではないですか。健康で無くなったら、お金が無くなったら、役に立たなくなったら…。見捨てられていく不安と恐怖、そのプレッシャーが私たちの社会を覆っている。これが「思い通りになる」世界を作ろうとした結果なのかと思うと、切なさばかりがつのります。









苦しいのは、自分の思いを中心にしているからなのです。ならば一旦立ち止まり、自分の思い自体を、ものさしそのものを問い直し、点検する必要があるのではないでしょうか。

冒頭で、思い通りにならない苦しみの代表として、生老病死の「四苦」をご紹介しました。しかしこの「老病死」を、『正法念処経』では「三天使」とも表されています。私たちは、思い通りに事が進む時に、「これでいいんだろうか」と生き方や歩んでいる道を問うことは、あまり考えません。思い通りにならない現実を突き付けられることで、初めて「私の生き方は、これで良かったのか」「私の求めるべきものは、何なのか」という問いが生まれてくる。自分の思いやものさしが揺さぶられ、問い直されるのです。つまり、思い通りにならない「老病死」という現実は、新たな気づきを開いてくださる導きなのだと。

まさに私たちは、仏様の世界から呼びかけられているのでしょう。その呼び声を聞き、自分の「思い」を点検し、「こんなに偏った見方しか、できていなかったのか」「こんな受け止め方もあるのか」と新たなものの見方が広がった人たちがおられるのです。自分を苦しめていた「思い」から解放され、与えられているものの有難さ、支えられていることの頼もしさ、包まれている世界の温かさに目覚めさせられた人たちが、私の前を歩んでくださっているのです。先人の確かな人生に導かれ、私もまた、呼び声に育てられています。■