今月の言葉は、四十年以上も前の作文の一節です。当時小学六年生だった少女が、学校行事で農業試験場を訪れて、書いたものだそうです。
「人間は生きるために、にわとりも殺さなくちゃいけないし、
豚も殺さなくちゃいけない。
生きるってことは、ずいぶん迷惑をかけることなんだなぁ。
自分で自分のことが全部できたら、ひとりぼっちになってしまう。
他人に迷惑をかけることは、その人とつながりをもつことなんだ。
生きるってことは、たくさんのいのちとつながりをもつことなんだ。
お乳をやった私に、温かい体をおしつけてきた子牛をみて、私は思った」
(小学校6年生 山崎まどかさん)
日頃食べていた牛肉が、こんなに可愛い牛だったことに気づいた彼女は、ショックを受けました。そして牛が「モノ」から温もりある「いのち」として、感じられたのです。同時に、そのいのちを奪うことでしか、私は生きられないという罪深さも。彼女の素晴らしさは、「このつながりを忘れてはいけない」と感じたことにあると、私は思うのです。不利益や不都合だからと、目を背けない。温もりも罪深さも、共に「人間が生きる」ことの事実なのだという態度に、尊さを感じるのです。
実は、これこそ真実の「つながり」なのでしょう。その「つながり」に依って、私という存在が成り立っている事実を、仏教では「縁起」と言い表してきました。その事実を見失う時、私は私を見失うのだということも指摘しているのです。
彼女は、「自分で自分のことが全部できたら、ひとりぼっちになってしまう」と語っています。四十年以上も前の言葉でありながら、今の時代に生きる、私たちの姿を的確に表しているようです。自分のことは、ほっといて欲しい。人に迷惑をかけるな。すべては自己責任。そんな態度で、孤立していく社会。「助けて」と言えず、「迷惑をかける私は生きていく資格がない」とまで卑下する人もいます。
でも、人から「迷惑をかけたくない。だから、あなたがいなくても、私は構わない」と言われたら、あなたはどう思いますか。気楽ですか。私はそんな言葉よりも「あなたがいてくれて、助かった。有難う」と言われる方が、嬉しいと思うのですが。
嫌な思いをさせられた相手から、「あの件については、もう謝罪したんだから終わりだ。いつまで、言っているんだ」と言われると、そんなに効率的に片付けるな!と腹立たしく思いませんか。「私は、あの件については忘れられない。本当に申し訳なかったと、今でも思っています」と言われた方が、良くないですか。
「生きる」ということは、そんな温もりあるつながりの中で生きている、いや生かされているということに目覚めることではないでしょうか。
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