2024(令和6)年3月



 

新型コロナウィルスが五類に位置付け変更され、もうすぐ一年が経とうとしています。人の流れもコロナ前に戻ってきましたが、感染症が無くなったわけではありません。それを自覚しながら、上手く付き合っていけるようにしなければと、改めて気を引き締めているところです。

しかし、あっという間の感染拡大でした。中国での発生報告から、二か月くらいでアマゾンのジャングルに住んでいる人が感染したという話も聞きますから、それだけ人や物の動きがグローバルになったということでしょう。インターネットは既に世界を網羅していますし、他国の紛争や企業の経営破綻が、私たちの生活に直接大きな影響を与える時代です。それだけ世界中と、ダイレクトにつながっているのだと実感させられています。

ところが、昔と比べて、人間同士のつながりは確実に薄くなりました。ご近所や地域とのつながりも、親戚付き合いも減りました。正月やお盆には、実家に帰省することが当たり前の時代もありましたが、今ではそれも少なくなってきています。昔よりも、交通の便は格段に良くなっているはずなのに。山口県の片隅の田舎でも、近頃は近所の人が亡くなったことさえ、知らされなくなりました。世界はダイレクトにつながっている。けれども、身近な、手触りのあるつながりは、確実に薄れてきている。何かおかしくないですか。

 

結局、つながっているのは「利益」「効率」だけなのかもしれません。役に立つもの、お金になるもの、自分にとって都合の良いもの。そのためのつながりばかりが、広がっているように思うのです。

考えてみれば、人間関係って、面倒くさいし、複雑ですからね。効率的にはいかないし、ややこしいし。そういうものより、事務的に処理できる方がタイパ(時間的な効率)もコスパ(費用的な効率)も高い。義理人情は、動きを鈍らせる。効率と利益ためにも、人に迷惑をかけられることは避けたい。そんな感覚が当たり前になっているのではないでしょうか。にも関わらず、それが感染症や紛争の影響といった不利益も、効率的に広げてしまったのは皮肉な話ですが。

効率と利益ばかりを追いかける世界は、温もりのない世界です。すべてを数字で量り、モノとして扱い、数字の間にあるものは切り捨てられる。それは、他者を人間として扱わないだけではなく、自分自身を人間として扱わないことにもなるのでしょう。そうして、世界は効率的につながりながらも、私たちの孤立は深まっていくのではないでしょうか。




 




今月の言葉は、四十年以上も前の作文の一節です。当時小学六年生だった少女が、学校行事で農業試験場を訪れて、書いたものだそうです。

「人間は生きるために、にわとりも殺さなくちゃいけないし、
 豚も殺さなくちゃいけない。
 生きるってことは、ずいぶん迷惑をかけることなんだなぁ。
 自分で自分のことが全部できたら、ひとりぼっちになってしまう。
 他人に迷惑をかけることは、その人とつながりをもつことなんだ。
 生きるってことは、たくさんのいのちとつながりをもつことなんだ。
 お乳をやった私に、温かい体をおしつけてきた子牛をみて、私は思った」
                (小学校6年生 山崎まどかさん)

日頃食べていた牛肉が、こんなに可愛い牛だったことに気づいた彼女は、ショックを受けました。そして牛が「モノ」から温もりある「いのち」として、感じられたのです。同時に、そのいのちを奪うことでしか、私は生きられないという罪深さも。彼女の素晴らしさは、「このつながりを忘れてはいけない」と感じたことにあると、私は思うのです。不利益や不都合だからと、目を背けない。温もりも罪深さも、共に「人間が生きる」ことの事実なのだという態度に、尊さを感じるのです。

実は、これこそ真実の「つながり」なのでしょう。その「つながり」に依って、私という存在が成り立っている事実を、仏教では「縁起」と言い表してきました。その事実を見失う時、私は私を見失うのだということも指摘しているのです。

彼女は、「自分で自分のことが全部できたら、ひとりぼっちになってしまう」と語っています。四十年以上も前の言葉でありながら、今の時代に生きる、私たちの姿を的確に表しているようです。自分のことは、ほっといて欲しい。人に迷惑をかけるな。すべては自己責任。そんな態度で、孤立していく社会。「助けて」と言えず、「迷惑をかける私は生きていく資格がない」とまで卑下する人もいます。

でも、人から「迷惑をかけたくない。だから、あなたがいなくても、私は構わない」と言われたら、あなたはどう思いますか。気楽ですか。私はそんな言葉よりも「あなたがいてくれて、助かった。有難う」と言われる方が、嬉しいと思うのですが。

嫌な思いをさせられた相手から、「あの件については、もう謝罪したんだから終わりだ。いつまで、言っているんだ」と言われると、そんなに効率的に片付けるな!と腹立たしく思いませんか。「私は、あの件については忘れられない。本当に申し訳なかったと、今でも思っています」と言われた方が、良くないですか。

「生きる」ということは、そんな温もりあるつながりの中で生きている、いや生かされているということに目覚めることではないでしょうか。









実は、今月の言葉を読んで、若かりし頃に熱中した名作漫画『北斗の拳』のワンシーンを思い出しました。物語のクライマックスで、主人公のケンシロウに対し、兄であり最大のライバルであるラオウは、こう叫びます。

「自らの肉体に傷を負うごとに、ひとつ!またひとつ!!
  オレの心の中に巣食う情愛を消していったのだ!!」


その言葉に対し、ケンシロウはこう語るのです。

「オレはこの傷をひとつ負うごとに、心をひとつもらってきた」と。

出遇いと別れを通し、心を捨てた男と心を刻んだ男。つながりを断ち切った男と、持ち続けてきた男。勝ち負けの結果は別として(モチロン少年マンガですから、主人公が勝つのですが)、生き方としては、心を刻み、つながりを持ち続ける方が、圧倒的に豊かだと思います。心を捨て、つながりを断ち切った先にあるのは、たとえ効率よく利益を上げることができたとしても、「孤独」「孤立」「ひとりぼっち」でしかないのですから。■

 




『北斗の拳』を知らない皆様には、わかりにくいかもしれませんね。申し訳ありません。