2024(令和6)年9月

「ハードル」とは、陸上競技で使われる器具のこと。各レーンに設置された障害物(ハードル)を越え、いかに速くゴールできるかを競うレースで使われます。
そこから転じて、日常生活における障害、乗り越えなくてはならない困難や問題を「ハードル」と呼ぶようになりました。ですから「ハードルが高い」とは、その難度が高いことを意味します。
 但し、陸上競技のハードルは「必ず越えなくてはならない」というルールが定められていますが、人生のハードルは、必ずしも越えなくてはならないものではありません。視点を変えれば、くぐり抜けたり、回り込んだりもできます。乗り越え方は自由であるはずなのですが、「こうしなくてはならない」という凝り固まった思いに執着して、自分を苦しめる。そんな生き方をしてはいないでしょうか。






 

「念仏者は無碍の一道なり」
これは『歎異抄』という書物(第七条)に記された親鸞聖人の言葉です。「無碍」とは、障害となるもの、妨げるものが無いということ。つまり念仏を称え、念仏と共に生きる者は、何ものにも妨げられることのない、一筋の道を歩むのだと言われるのです。
 このように聞くと、念仏を「人生のハードルを取り除いてくれる呪文」のように受け止められる人があるかもしれません。一般的に「無碍(障害、妨げるものがない)」とは、困難や問題の無い、快適で思い通りになる人生を思い浮かべる方が多いでしょうから。
 しかし残念なことに、私たちは人生を歩む限り、困難や苦悩を避けることはできないのです。しかも思い通りで快適な人生を追い求め、困難や苦悩を遠ざけようとするほどに、実は、逆に不快な障害が増えていくのです。
 近頃は、昔では考えられなかったクレームが増えていますよね。「子どもの声がうるさい」「除夜の鐘がやかましい」「隣の田んぼのカエルがうるさいから、田んぼの持ち主を訴える」などなど。快適な環境が整い、快適さのハードルが上がることで、これまでは何とも思わなかったことが不快に感じるようになったからです。そうして被害者意識が強くなり、ストレスが溜まっていく。快適さを求めようとする思いが強くなるほど、快適さを妨げるものが増え、不快さが増していくという皮肉な状況になっている。これが現代社会の有り様です。
 親鸞聖人の示される「無碍」とは、障害を無くすものではありません。お念仏のみ教えをいただく者は、障害や困難を通して見えてくる、尊い世界へと導かれるのです。病気や、苦悩する経験を通して、今まで気づかなかった優しさを知らされる。当たり前だと思っていたことが、いかに有難いことか、様々な人たちのお陰によるものかと気づかされる。死を突き付けられることで、生死をこえてこの私を受け止めてくださる世界があることに目覚めさせられる。世界が深まり、新しい出会いが広がっていく。お念仏のみ教えをいただくことで、ものの見方が変わり、今まで困難や妨げだと思っていたことが、新たな世界と出遇うご縁となり、大切な経験へと転じられていくのです。

 『大無量寿経』には、「身心柔軟」という言葉が出てきます。阿弥陀様の光に触れることで、自らの身や心が柔らかくなっていくのだと。それは、それまでの「こうでなくてはならない」という凝り固まった思いがほぐされ、柔軟な視点が与えられていくということです。とはいえ、お念仏を称えたらすぐに、ものの見方や生き方が激変するということではありません。「自分の考えは凝り固まっていたのだ」と気づかされることで肩の力が抜け、柔らかな生き方への歩みが始まるのです。
 つまり無碍とは、困難が無くなるのではありません。人生のハードルだと思っていたことが柔らかに転じられ、大切なご縁といただけるようになる。苦悩していた日々が、虚しいものにならなくなる。人生まるごとすべてが、大切なものとなる。そんな生き方へ、育てられるということなのです。







 

そして「無碍」にはもう一つ、「自由」になるという意味もあります。道が定まることで、私たちは自由になるのです。
 一般的には「自由」と聞くと、勝手気ままにふるまうことだと思われがちです。だから、道が定まると聞くと、束縛を受けるようなイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。しかし仏教では、勝手気ままにふるまうことを「自由」とは言いません。それは、煩悩に振り回されているだけのこと。
 そもそも、私たちがしたいと思っていることは、本当にしたいことなのですか。流行に踊らされ、購買意欲や不安を煽る広告に、振り回されているのではないですか。周りと比べることで生まれた「うらやましい」という思いが、私を駆り立てているのではないでしょうか。周りの様々な声に振り回され、実は自分を見失っているのかもしれません。
 念仏の道が、私の歩むべき道だと定まることは、本当に求めるべきことが明らかになることであり、誰の声を聞くべきかが定まることなのです。本質が明らかになることで、何が些末なことなのかも知らされ、融通も応用も効くようになる。立ち戻る場が与えられ、地に足のついた生き方をいただくことができるのです。

 私たちの人生には、「ハードル」がつきものです。しかしお念仏を称え、込められた阿弥陀さまのお心を聞くことで、困難や苦悩に向き合う勇気が、そして時には乗り越え、時にはくぐる勇気が与えられる。「周りの声に振り回されていたなぁ」「凝り固まった考えに、捉われていたなぁ」と気づかされ、解きほぐされ、新たな視点も開かれる。ハードルがハードルではなくなっていく。そんな柔らかで、そして自由な生き方への道が、既に届けられてあるのです。
 快適さを求めることで、逆に不快さを増している現代社会において、改めてその有難さをいただき直さねばなりません。■