2025(令和7)年1月


効能を求めて?

 近頃は、「パワースポット」という言葉が、すっかり定着しています。パワースポットとは、「癒しやエネルギー、ご利益などを得られるとされる神聖な場所のこと」なのだとか。滝や巨木といった自然物、神社仏閣がパワースポットに認定され(誰が認定しているのかは定かではありませんが)、それらを巡るツアーも組まれているようです。その影響からでしょうか。御朱印集めも流行っているようで、うちのお寺にも「御朱印を押していただけませんか」と、訪ねて来られた方もありました(残念ながら、浄土真宗のお寺には御朱印はありません)。このように最近では、有名な神社仏閣だけでなく町中の一般的なお寺に訪れる人もおられるようです。

 ある晴れた日のこと。私の先輩の住職さんが境内を掃除していると、観光客であろう初老のご夫婦がふらりと入って来られ、こうたずねられました。
 「このお寺は、どんな願いに効くお寺なのですか?」と。
先輩はしばらく考えて、こう答えたそうです。
 「このお寺は、阿弥陀さまの願いを聞くお寺なのですよ」と。

 「効く」と「聞く」。読みは同じですが、中身はまったく違います。「効く」とは、「効果」「効能」というように、効き目があるということ。つまり、このご夫婦の質問は、「このお寺には、どんな効能があるのですか?」ということです。いや、温泉と間違えられたわけではないようですが。
 ただ、パワースポット巡りや御朱印集めも、効能を求めてのものであるならば、趣味や娯楽の延長でしかありません。なぜならそれは、自分が欲しいものを求める生き方であり、自分の生き方そのものが問われることはないからです。




 



阿弥陀さまの立ち姿

 近頃は、仏像を巡る旅もブームになっているようです。エッセイストのみうらじゅんさんやマルチクリエーターのいとうせいこうさんが、長年仏像の魅力を発信し続けてくださったお陰でしょうか。NHKでも、『アイドルと巡る仏像の世界』という番組が放送され、仏像好きを公言する若い女性アイドルが、独自の視点で仏像鑑賞の楽しみ方を語っておられました。

 ちなみに、浄土真宗のお寺の中央に安置されているのは、阿弥陀如来のお木像です。浄土真宗の阿弥陀如来像の特徴は、何と言っても立ち姿ということ。実は、仏さまは座像が当たり前なのです。奈良や鎌倉の大仏も座っておられます。
 何より、立ち姿は本来、仏さまには相応しくない「軽挙」
(『観経疏』善導大師)、軽はずみな行動だといわれています。では、なぜ真宗寺院の阿弥陀さまは立ち姿なのか。それは、迷いを迷いとも気づかずに、さらに迷いを深めている私たちを心配し、救わずにはおれないと、思わず立ち上がってしまったお姿をあらわしているからです。ですから横から見ると、前傾姿勢をとっておられるのがわかります。それほど阿弥陀さまは、私たちのことを大切に思っておられるということを示されたのが、この立ち姿。つまり、仏像のお姿には、深いメッセージが込められているのです。









「何に効くか」よりも

 ところで他宗派のお寺にも、阿弥陀さまのお木像はあります。但し、座っておられるなど違った形式のものも数多くあるのです。例えば、阿弥陀三尊像という形式で、阿弥陀さまの両隣に観音菩薩像と勢至菩薩像が安置されているケースもあります。奈良の法隆寺や京都の三千院、仁和寺などが、特に有名ですね。

 観音菩薩は、阿弥陀さまの「慈悲」のはたらきを象徴したお姿、勢至菩薩は「智慧」のはたらきを象徴したお姿だといわれます(ちなみに、親鸞聖人はお師匠の法然聖人のことを、「勢至菩薩の化身」として尊敬されていました。親鸞聖人の妻である恵信尼さまは、親鸞聖人のことを「観音菩薩の化身」として尊ばれています。なんて素敵な、師弟関係、夫婦関係でしょうか!)。

 






 

さて、観音菩薩には、様々なお姿がありまして、その一つが千手観音です。頭からも肩からも、身体一面に手が生え、それぞれに道具を持ち、印を結んでおられます(実際に千手あるお像は少なく、大抵は四十二本なのだとか)。とはいえ、現実にはそんな身体なんてありませんが、「観音菩薩や阿弥陀さまの慈悲の徳は、様々な手を尽くして私たちを救おうとされている」ことを示すために、このようなビジュアルで表現されるようになったのです。
ただし、この千手観音像。真ん中の手だけは、いつも胸のところで厳かに合わされています。実は、ここがポイントなのです。この合掌する姿が、観音菩薩の軸をあらわし、歩む方向を示しておられるからです。
 
 どんなに様々な能力、例えば学力・体力・知力・経済力・権力・武力を持っていても、使う方向を間違えてしまうと、人を傷つけたり、時には殺したりすることにもなりかねません。それは、戦争や犯罪だけでなく、私たちの社会の至る所で見受けられることです。
 
 同様に、どんなに効果や効能があっても「何のためか」「なぜ、それを求めるのか」という方向を考えることがなければ、かえって自分の迷いを深めることにもなりかねません。千手観音像の真ん中の手が厳かに合わされているのは、千の手段が「慈悲の実践のため」であるという、目的と方向を明らかにするためなのです。
 つまり、「何に効くか」と考える前に、まずは「どこに向かって生きているのか」「何を大切に、何を粗末にしながら生きているのか」という、自分の生き方そのものが問わなくてはならない。そのことを、千手観音像から教えられるのです。

 

 







 「阿弥陀さまの願いを聞く」とは、まさに私自身の生き方そのものが問われ、人生の方向を問いたずねることなのです。思わず軽挙な立ち姿をとってしまうほど、私たちを心配してくださる阿弥陀さまのお心を味わいながら。

 そもそもお寺参りとは、趣味や娯楽のようなものではありません。もちろん、そういう要素があっても良いのですが、それが本来ではないのです。まさに、人生を歩む上で欠くことのできない、大切な、大切な営みなのです。■