2025(令和7)年10月



 
 以前、ご門徒のおばあさんが亡くなられた時のことです。娘さんたちは、皆嫁がれているので、もう家を継ぐ方はいない。そんな状況でした。

 さて、お通夜が終わった後のこと。娘さんたちが、相談に来られました。実家の隣に住んでいるおばさんから、「あなたたち、ちゃんと近所の人たちに挨拶して御礼を言わないといけないよ」と言われたそうなのです。「こちらの方では、そこまでしなくてはいけないのですか!」と、少し怒気を含んだ口調で尋ねられました。
 そこで私は、「おばあちゃんは、近所の人たちと一緒に生きてこられましたからね。最後に一言、御礼を言うくらいはしても良いのではないかと思いますよ」と答えました。すると、ハッと我に返ったように「そうですよね」と肯かれ、憑き物が落ちたように、今度は積極的に挨拶されたのです。


 私はその時、ふと恐ろしいことに気づいてしまったのでした。私たちは無自覚に、ある考えを刷り込まれているのではないかと。まさに、マインドコントロールに近い状況にいるのではないかということを(陰謀論ではありません。ご安心を)。

 近頃の私たちは、「これは、しなくてはならないよ」と言われると、反射的に「強制」や「押し付け」だと受け止めてはいませんか。いや。「私は、自由を侵害され、負担を強いられている」と、極端な被害者意識を持つ人さえいる時代です。もちろんそこには、実際に強制やハラスメントのケースもあります。しかし、すべてをそうだと決めつけるのは、あまりにも浅慮に過ぎます。





 



 考えてみれば私たちは、先人から多くのものを受け継いできました。ところが最近は、その内容を吟味することなく、目先の「快適か」「効率的か」「合理的か」ばかりを追いかけ、「面倒くさいこと」「非効率的で非合理的なこと」は、すべて切り捨てる。そんなマインドに染められてはいないでしょうか。だから、自分が嫌なことは、すべて「強制」「自由の侵害」「負担」だと決めつけてしまうのではないですか。

 でも私は、一般的にネガティブな感情として敬遠される「悲しみ」や「痛み」が、豊かな成長を促し、大切な学びを生むことを、葬儀で目の当りにしてきました。人生の深さは、目先の効率性や合理性では、量り知れないとも、思い知らされています。ただそれらも、近頃は「効率」が優先され、「負担」だと感じられ、簡略化されている。本当に、寂しい限りです。

 ともあれ、娘さんたちが私の一言で行動を変えられたのは、子どもの頃の思い出が蘇り、具体的で手触りのある関わり合いが呼び起されたからではないかと思うのです。
大袈裟かもしれませんが私はそこに、刷り込まれていた考えから離れ、人間としての温もりを取り戻した姿を感じたのです。まさに、「我に返った」「憑き物が落ちた」という表現がピッタリだと思いました。では、なぜ私たちは、ここまで目先の効率性や合理性に捉われているのでしょう。


 実は、20世紀前半を代表する経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが、興味深い指摘をしています。資本主義が広がっていくと、合理的な思考が人々に蔓延する。すると、非効率的な行為や非合理的な考えは排除されていく。次の世代にならないと結果が出ないような研究は、非効率的だと見られ投資されなくなる。すぐに結果が出るもの、目先の損得ばかりを追いかけるようになって、いつしか「自分が死んだ後のことなんか、知ったことか」「自分が楽しめればいい」「生きているうちにすべて消費してしまおう」という長期的な視野を失った人びとを生み出すのだと。
現代社会の有り様をそのままに表しているようなシュンペーターの指摘は、約八十年前に予見されたもの。何という慧眼なのでしょうか!


※ ちなみに、プロ野球のオリックスバファローズで2023年に新人王を獲得した山下舜平太投手は、シュンペーターにちなんで命名されたのだそうです。







 ところで、ミープ・ヒースというオランダ人の女性をご存知でしょうか。彼女自身はあまり知られていませんが、彼女が助けた人はよく知られています。
 彼女は、『アンネの日記』の作者アンネ・フランクの一家を、ナチス・ドイツの迫害から守り、匿っていた人なのです。ヒースはごく普通の事務員でしたが、二年間もの間、アンネたちの隠れ家に食事や本を届け続けました。

 実は彼女自身、子どもの頃に助けられた経験を持っています。第一次大戦後、大変な不況がヨーロッパを襲いました。このとき、オランダの労働者たちが列車を仕立てウィーンに走らせ、飢えている子どもたちを引き取り、元気にして帰すという運動を始めたのです。
 
 もちろんオランダの労働者たちだって、貧しかったし、ゆとりがあるわけではない。でも、二人育てるのも三人育てるのも、たいして変わりはない。もう少し努力すればできる。そう考えた人びとが運動に加わりました。ミーブ・ヒースはそうして、ウィーンから連れてこられた子どものひとりだったのです。(『幸福に驚く力』清水眞砂子)



 ヒースたちの時代よりも、私たちが生きる現代社会は、遥かに恵まれた環境だといえるでしょう。確かに、モノに溢れてはいます。しかしそれぞれが自分のモノを握りしめ、分かち合うこともない。目先の損得ばかりを優先し、お付き合いや支え合いなど考えない。そんな考えが蔓延しているのではないでしょうか。ましてや、「二人育てるのも三人育てるのも、たいして変わりはない」と言えるようなマインドは、すっかり失っています。
 

 私たちは、実は心貧しい生き方をしているのでしょう。豊かだから施すのではない。施せる人が豊かなのだと、つくづく思い知らされます。






 

 またヒースは、「私はヒーローなどではない。/もっと多くの ―はるかに多くの— ことをした良きオランダ人たちの、長い長い列の端に連なっているにすぎない」(『思い出のアンネ・フランク』)と語っています。私に先立って、多くの人たちがなされた良きおこないに、私は連なっているだけ。その歴史を受け継ぎ、列の端にいるだけなのだと。
 そこには、確かな温もりと、具体的な手触りがあります。広々とした心と深い豊かさが広がっています。


 ならば、私たちが今取り戻すべきは、長期的で広い視野ではないでしょうか。私のところにまで至り届いている、良き人びとの歴史に出会い直す。大きな世界の中に、自分を見出していく。そこから、私に関わってくださっている多くの人びとと出会い直していく。そんな長くて広い視野を。

 ただ、合理的なマインドが染みついた現代社会に生きる私たちにとって、長くて広い視野や、人間としての温もりを取り戻すことは、かなり難しいことだと思います。でも、それを取り戻すお薦めの場所があるのです。それは、手前味噌になりますがお寺です。


 お寺は、非効率と非合理性の最たるものといえるでしょう。だから、良いんです。だからこそ、合理的思考とは違う枠組みで、ものを見たり考えたりできる。頑なな考えが揺さぶられるのです。何より、長い伝統があります。極楽寺の本堂は、たかだか二百年くらいの建物ですが、その二百年という時間の流れを感じることができる場所は、なかなか身近にはありません。

 長い歴史と大きな関係性の中に、今の私の人生があることを味わう。私に届けられた恩に目覚め、自分のいのちの深さと重さを味わっていく。それがまさに、お寺という場所なのだと思います。


 ただ正直言うと、今や私たちお坊さんにも、合理的思考が染みついているのも事実です。そうなると、お寺の存在意義も揺らぎかねません。我に返り、しっかりと危機意識を持っていかねばと思う、今日この頃です。■