2025(令和7)年12月



 
以前あるテレビ番組で、俳優の佐藤健さんが「本当にやりたい事があるとしたら、やりたい事に近いことをやるよりも、やりたくなくても土台を固めるために必要な仕事がある。まずはそれを、やるべきだ」と発言されていました。

 近頃は、「できるかぎり無駄なく、最短で目標に到達すべき」というビジネスの論理が、生活に深く浸透しています。コスパ、タイパは、まさにその象徴的な言葉。そんな時代に、映画やドラマで主役を務める超人気俳優が、あえてタイパやコスパの悪いことを勧めている。その真意や如何に。思わずテレビに注目すると、
「例えば、レオナルド・ディカプリオの『タイタニック』みたいな、超かっこいい役をやりたいというゴールがあったとき、かっこいい役をやっているから、そこに辿り着くわけではないと思うんですよ。演技が評価される作品に出て土台を作り、初めてそこにジャンプできるみたいなのってあるじゃないですか」
(『日曜日の初耳学』佐藤健)
と語られたのです。

 目標に対して直接的に向かうと、意外に辿り着かないことがある。遠回りに見えても、それが幅を広げ、土台作りに繋がり、気づけば目標に近づいていることがある。まず固めるべきは土台であり、土台がしっかりしているからこそ、目的に届く。確かに、その通りだと肯かされました。三十代半ばとはいえ、数多くの経験を重ねておられる世代のトップランナー。その言葉には、さすがに説得力がありました。

 そして、思ったのです。実は、幸せになるための土台作りというものもあるのではないかと。なぜなら人は、どれだけ多くのものを与えられても、幸せを感じるとは限らないからです。もっともっとと、更に刺激を求めるなら、満足することはありません。与えられているものを深く味わう力や、足ることを知る力を育てる。そんな、幸せになるための土台を作らなくては、幸せの真ん中にいても、幸せに気づくことなく過ごしてしまうのではないでしょうか。






 



 私はこれまで、住職としてたくさんの葬儀や法事に出てきました。そこで、一般的にはネガティブな感情と思われている「悲しみ」や「痛み」というものが、どれだけ人の心を豊かにするのかを、目の当たりにしてきました。

 大切な人を亡くした悲しみは、亡き人を大切に思う心の裏返しです。大切に思うからこそ、失った悲しみは深いのでしょう。その悲しみと向き合うことが、亡き人のかけがえのなさ、共に過ごした日々の豊かさ、与えられていたものの重さを味わうことになるのです。そして、「もっと、こうしてあげれば良かった」と、痛みと共に味わう後悔が、遺された人を育てることもあります。

 何より、亡き人と出会い直すとは、自分の人生と向き合い直すことでもあります。亡き方との思い出を通して、どれだけの思いやはたらきの中で育てられてきたのかを振り返る。家族や親族が語る思い出話を通して、自分の人生を違った角度から知らされる。そんな人生を深く味わい直す営みは、人生を豊かにする土台となるのです。


 そもそも今の時代、悲しみの場以外で人生と向き合うことなんてありますか?「無駄なく、最短」を重視する生活の中で、人生を振り返るという営み自体を見失っているのではないですか。そう考えると、大切な悲しみや痛みの時間を、タイパ、コスパを優先した、単なるスケジュール消化のようにこなすのは、本当に勿体ない。悲しみや痛みは、無駄な時間ではないのです。

 加えて、その土台は「無駄なく、最短」に出来上がるものではありません。人間的な成長は、経験を重ねてコツコツと育てていくもの。安易に求めると、軽薄なものにしかならないのです。
 ただし、悲しみ方は人それぞれだということをご注意ください。涙が出ないほど、深く悲しむ人さえいるのです。だから安易に、「あの人は、冷たい人だ」と人を責めたり、「自分は、冷たい人間だ」と自分を責めてはいけません。







 

 ちなみに、私が「悲しみ」や「痛み」が人の心を豊かにすると気づかされたのは、住職として葬儀に関わってきたからだけではありません。仏法に出遇い、自分自身の土台を確かにさせていただいたことが、大きいと実感しています。

 親鸞聖人が指し示してくださったお念仏の教えは、「悲しみ」や「痛み」を大切にします。自分の生き方に悲しみや痛みを感じる慚愧の心とは、「私は、大切にすべきことを、大切にできていない」という心なのです。つまり裏返せば、大切なことに気づけたからこそ、生まれた心だといえるでしょう。そもそも、大切さに気づいていない時には、痛みなんて感じませんからね。

 ただし、「大切にできてない私は、ダメだ」と、自分を責めることとは違います。阿弥陀さまは、「大切なことに、よく気づいてくれたな」と喜んでくださる方であり、気づく以前から、私を慈しみ続けてくださる仏さまなのです。

 そして、痛みや悲しみを胸に秘めて生きる人ほど、生き様に深みがあることをご存知でしょうか。そんな人と出会うと、心が揺さぶられます。安易に開き直り、正当化する自分の姿が、いかに軽薄で恥ずかしいものなのかを突きつけられるようで。お念仏に生きる先達には、そんな方が数多くおられるのです。
 先達との出会いが私の土台を確かにしてくださり、葬儀という具体的な場を通すことで、思いもよらない豊かさと出会わせてくださったのです。

 辛さや悲しみ、痛みは、人生の土台を養い、育ててくださる大切なご縁です。そこをくぐり抜けるからこそ、幸せになるための土台が作られ、幸せに一歩近づくのでしょう。ならば、その経験を無駄するのは、本当に勿体ない。

 タイパやコスパを重視し、幸せを直接的に追いかけることで、私たちは逆に幸せを見失ってはいないでしょうか。遠回りのように見えても、確かな土台を積み上げていく。そんな経験を大切にしたいものです。■