2025(令和7)年2月


 聖徳太子という方は、今から約一五〇〇年前、飛鳥時代に活躍された方です。仏教を篤く信仰し、その興隆に努められました。親鸞聖人も、「日本のお釈迦さま」と大変尊敬されています。その聖徳太子が示された『憲法十七条』にあるのが、今月の言葉です。

 「凡夫(ただひと・ぼんぶ)」という言葉を『仏教語大辞典』で調べてみると、「愚かな人、無知なありふれた人」とあります。まさに「ただの人間」といったところでしょうか。では、「私もあなたも無知で愚かな、ただの人間だ」と言われて、素直にうなずけますか?特に現代社会は、「正しさ」「賢さ」が求められる時代ですから、「失礼な!」と怒られる方があるかもしれません。
 しかしこの言葉、今だからこそ傾聴すべき、重要な言葉なのではないかと、私は考えているのです。




 


 私は、地元中学校の委員をしています。その会議で、学校のいじめ対策に関する報告を受けたことがありました。そこで担当の先生がおっしゃった、「いじめは絶対にダメ!という方針で取り組んでいます」という言葉に、違和感を持ったのです。モチロン、いじめがいけないのは、当然のこと。悪質ないじめは、絶対に容認できません。ただその視点だけでは、見落とすことがあると思ったからです。

 現在の教育現場では、「個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的にすることなく、いじめられた生徒の立場に立つ」と定められています。つまり、「いじめられた」という発言があった時点で、これを「いじめ」と認定するのです。いじめたとされる側に、自覚があろうがなかろうが。

 では、ここで考えてみてください。皆さんは、私がどんな言葉で傷つくかをご存知ですか?わからないですよね。私も、皆さんがどんな言葉で傷つくかなんて、わかりません。つまり私たちは、相手の立場や思いを、すべて理解することはできないのです。しかも人って、置かれている立場や状況によって、何気ない一言、普段から使っている言葉で、深く傷ついてしまう存在ではないですか。つまり私たちは、無邪気な言葉で、悪気のない軽い一言で、人を深く傷つけることがあるのです。

 にも関わらず、教条的に「いじめは、絶対にダメ!」というのは無理がありませんか。モチロンいじめは、いけないことです。悪質なケースは、もっての外。でも現実には、すれ違いのケースだって、たくさんあるのですから。
相手の思いや状況を理解することは、成熟した大人でも難しいことです。にもかかわらず、「理解しなさい。絶対に相手を傷つけてはいけません」という、過酷なミッションが中学生に課されている。この歪みが、傷つけた相手のことよりも、自分の正当化を優先する態度を生んでいるのではないでしょうか。
 「いじめ加害者」のレッテルを貼られたくない。悪気があってやったのではないから、私は悪くない。私は、そんなことを言っていない。「正しさ」「賢さ」を追い求め、自分を正当化するほどに、傷つけられた側は憤り、ますます問題はこじれていく。そんなケースは、いくらでも目にします。これは学校だけの話ではありません。ハラスメントや差別の問題も同様です。








 では、もしも「ともに凡夫ならくのみ(私もあなたも、ただの人間だ)」という自覚を、みんなで共有することができたら、どうでしょう。

 ただの人間同士だから、加害者になることもあれば、被害者になることもある。ならば、もし相手から「傷ついた」と言われたら、誠実に謝ろう。相手の思いに向き合おう。そして、傷つけた相手が誠実に謝るならば、傷つけられた側はそれを受け入れよう。なぜなら、誰もが過ちを犯す、ただの人間だから。傷つけられた私が、今度は傷つける側になるかもしれないのだから。そこに、「自分がされて苦しかった行為を、人にするわけにはいかない」という思いも、生まれてくるのではないでしょうか。共に「ただの人間」という地平に立つからこそ開かれる、豊かな関係があることを教えられるのです。


 世界では、現在も戦争が繰り広げられ、たくさんのいのちが奪われています。過去に悲惨な被害を受けた民族が、今度は加害の側に回るケースも起きています。自分たちに反対する立場の人々を、「私たちをまた、迫害し差別するのか」と決めつけながら。
 誰もが被害者になることも、加害者になることもありうる。そんな事実と、今こそ冷静に向き合う必要があるのでしょう。その事実を、約一五〇〇年前の言葉によって教えられなくてはならない状況に、私たちはいるのです。時代は変わっても、テクノロジーが進化しても、人間の本質は変わらないようです。

 



 

但し、冷静に「私はただの人間だ」と自己分析し、受け容れることは、いつの時代も困難なミッションだといえるでしょう。自分を正当化する。都合の悪いことから目を背ける。そんな我執を持つのも、私たちの本質ですから。
 では、なぜ聖徳太子や親鸞聖人には、冷静な自己分析ができたのか。それは、ただの人間である私を、慈しみ、受け容れてくださる仏さまのお心に気づかれたから。愚かさを抱えた私が、肯定され、受け容れられ、居場所を与えられたから。間違を犯しても否定されない。むしろ、素直に過ちを認めることこそ称賛される、そんな世界と出遇われたから。だから大地に足が着くように、安心して自分と向き合えたのでしょう。
 
 聖徳太子は、「それ三宝に帰りまつらずは、なにをもつてか枉れるを直さん」(『憲法十七条』)とも言われています。仏さまと、その教えと、その教えに歩む人々(三宝)を拠り所にしなければ、我執にとらわれた心をただすことはできないのだと。
 約一五〇〇年前の聖徳太子の言葉は、「あなたは、そんな拠り所と出遇っていますか?」と今の私たちを問うておられるようです。世界に大きな影響力を持つ大国が、自国中心主義を叫ぶ政治家を選ぶ時代に。「正しさ」と「正しさ」がぶつかり合う、我執の方向へと進んでいる現代の私たちに。
 深く重く傾聴せねば。そんなことを思う今日この頃です。■