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| 2025(令和7)年7月 | |||
阿弥陀さまのお浄土とは、「煩悩の穢れを離れた清らかな世界」だといわれます。「清らかな世界」と聞いて、皆さんはどんなイメージを持たれますか?実は、私たちの思う「清らかな世界」は、お浄土とはまったく違うものなのかもしれないのです。 考えてみれば私たちの環境は、昔と比べてとても清潔になりました。四十年前のシャンプーのCMでは、歌手の中森明菜さんが「信じられる?ティーン(十代)の2人に1人は毎日シャンプーしてるって」と語っていたほど、毎日髪を洗う人が珍しい時代でした。今では、そんなことで驚く人などいませんよね。私が子どもの頃は、泥だらけで鼻を垂らして遊んでいましたが、そんな子どもを見ることもなくなりました。きれい好きな人も増え、「潔癖」という言葉も定着しています。そして、「誰が握ったかわからないおにぎり≠ネんて、食べられない」という人も増えました。 このように、日本はどんどん清潔になりました。同時に、不潔に対して不寛容な社会になりました。これは環境面だけではありません。生き方や発言や社会、人間の関係性にも求められるようになっています。体罰、不適切な発言、不倫…、一昔前では考えられないほど、厳しい目で見られるようになりました。不祥事を起こした人に対して、SNSやインターネットを使い、非難、怒号、罵声が浴びせられるようにもなりました。そんな不潔に対する不寛容さは、コロナ禍を通して、ますます強化されたようです。この状況を評論家の岡田斗司夫さんは、「ホワイト化社会」という表現で指摘されています。但しそれは、清潔ではあっても生きづらい社会です。事実、いつ自分に厳しい目が向けられるのではないかと怯えながら、ストレスの中で生きている人が、増えているのではないでしょうか。
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しかし、不潔に対して不寛容な人であっても、自分の中に不潔な部分はあるはずだし、ずるい部分も持っているはず。このような、自分の中にある否定されるべきものを、心理学者のユングは「影」と名づけました。そしてその「影」から目を逸らしていると、その歪みは「影の投影」という形であらわれるのだそうです。 なぜか自分でもわからないけど、ある人を見るとイライラする。そんな経験はありませんか。別にその人が自分に危害を加えたわけではない。その人から嫌みを言われたわけでもない。なのに、その人を見ると、なぜかイライラしてくる。これは、相手の中に自分の影を見ているからなのだそうです。自分の影に似た部分を持っている人を、無意識のうちに選び、攻撃する。これが「影の投影」です。 不潔さを嫌い、清潔な正論を盾にして、醜く汚い暴言をSNSに書き連ねていく。ユングによれば、それは相手の中に自分の不潔さを見ているからであり、自己への嫌悪感が他者に投影されたものなのでしょう。そもそも、無記名の安全地帯から、好き放題に無責任な意見を書き連ねる行為自体が、ずるく汚く、歪なものだと思うのですが。 ともあれ不潔さに対する不寛容は、潔癖を求めるほどに排除へとつながります。それを象徴するような言葉が国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告書にあります。ウクライナ侵攻におけるロシア兵の一人が、このように語ったというのです。「我々はウクライナの汚れを浄化するためにここに来た」と。ゾッとしませんか。1990年以降のユーゴスラヴィア内戦で「民族浄化」の名の下におこなわれた虐殺を思い起こされる方もあるでしょうし、オウム真理教のポアを連想される方もあるかもしれません。 自分たちは清らかで、あいつらは汚れている。その汚れを浄化するためには、殺してもいいのだと。 ただこれは、殺戮という行為を正当化するために、自分に言い聞かせている言葉なのかもしれません。戦場で兵士は、「自分が行っていることは絶対に正しいのだ」とある種の催眠状態に自分を追い込まないと、相手を殺すことができないとも言われていますから。どうやら私たちがイメージする「清らかな世界」とは、「影」から目を逸らした、歪んだものでしかないようです。 |
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但し、誰もが同じく斉しく救われるということは、実は私たちにとって不快なことでもあるのです。なぜなら、大嫌いな者とも、酷いことをした人とも、同じく救われていくわけですから。「あんなヤツと一緒にするな」「不公平だ」「おかしいじゃないか」と思うのが、世間一般の考え方ではないですか。阿弥陀さまのお心と比べると、何と狭い考え方…。やはり私たちは、どこまでも自分の清らかさを主張し、影から目を背けてしまうのですね。 ちなみに「回入」とは、回心して帰入すること、自分の思いにこだわる心をひるがえし、真実に目覚めることを意味します。そして親鸞聖人において、真実に目覚めるとは、一切衆生を救いたいと願う阿弥陀さまのお心に目覚めるということなのです。 ならば、「あんなヤツと一緒にするな」「不公平だ」と思う私こそが、まさに阿弥陀さまのお心に逆らい謗る者なのだと知らされるのです。但し、そんな逆謗の私をも、見捨てることなく摂め取ってくださるのが、阿弥陀さまのお浄土でもあるのです。 どんな私であっても、決して切り捨てられることがない。このような世界が、私たちには用意されている。だからこそ安心して、自分の影と向き合うことができるのです。 影の部分を含めて、私なんだ。この事実を受け容れることからしか、何も始まらない。このままの私が、そのままに抱き取られている。ありのままの自分と向き合うことで、このままではいけないという歩みが開かれる。その歩みこそが、地に足のついた確かなものであるのでしょう。■ |
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