2025(令和7)年8月



 
毎週木曜深夜に放送される、『アメトーーク』という番組があります。二十年以上も続く人気番組で、共通の趣味や特徴を持ったり、同じような経験をしたお笑い芸人さんを集め、決められたテーマについてトークするバラエティーです。

 そこで以前、『定時制高校芸人』という回がありました。様々な理由で定時制高校に通っていた芸人さんたちが、様々なエピソードを語ります。年上の同級生とのちょっと変わった学園生活、切なすぎる文化祭…。それぞれの話がおかしくて、そして温かくて。中でも、一人の若手芸人さんが紹介してくれた話が、とても印象に残りました。
彼はよく、クラスメイトの金髪のヤンキーに虐められていたそうです。その日も絡まれていたところ、同じくクラスメイトの(きむ)さんという八十歳を過ぎたおばあさんが、「いじめたらあかん」と立ちはだかってくれました。するとヤンキーは、金さんにも「なんや、クソばばあ」と絡んでいきます。

 どうなることかと思ったその時、金さんは突然ヤンキーを抱きしめて、こう言いました。
「ここに敵はおらん!」と。
するとヤンキーは、突然ボロボロと涙をこぼし始めたというのです。

 (きむ)さんというお名前から察するに、このおばあさんは在日の方なのでしょう。沢山の差別に、ご苦労に耐えてこられた方なのでしょう。そして八十歳を過ぎても、なお学びたいという思いで定時制高校に通われている。
 そんな風雪に耐え、痛みを知る金さんにとって、ヤンキーの粗暴なふるまいは、寂しさの裏返しに感じられたのではないでしょうか。だから、ヤンキーを抱きしめたのだと思うのです。

 ヤンキーにしても、金さんのふるまいは意外なものであったことでしょう。これまで幾度も、同じような場面で、否定され続けてきた。ところが、このおばあさんは抱きしめてくれた。「ここに敵はおらん!」と。そして「ここには、あなたの居場所がある」と、自分の存在を認めてくれた。だから、そのヤンキーも涙を流したのだと思います。




 



 仏教では、この金さんのような心やふるまいを「慈悲」といいます。

 「慈」とは、インドのサンスクリット語のマイトリーという言葉の訳なのですが、もともとは「友」「親しきもの」という意味で、相手を親しき者として、思いやり、慈しみ、大切に思う心です。
 「悲」とは、カルナ―という言葉の訳で、「優しさ」「憐み」「情け」を意味します。このカルナ―には、もともと「うめき声」という意味があるそうで、そこから苦しみを共にし、悲しみを共にするという心をあらわすようになりました。

 仏教学者の中村元先生は「慈悲行の実践者は『他人の苦しみを苦しむ人』である」といわれていますが、まさに金さんは自分のこれまでの経験を通して、ヤンキーの寂しさや苦しみに寄り添い、共に苦しまれたのです。だからヤンキーも、その温もりに触れて素直になれたのでしょう。

 この慈悲の実現を目指すのが、仏に成る道、仏道なのです。「慈悲は仏道の根本なり」(『大智度論』)、つまり慈悲こそ仏道の中心であり、慈悲は仏そのものであるといわれますし、また「仏心とは大慈悲、これなり」(『観無量寿経』)、仏様の心を一言であらわすと大慈悲心だともいわれているほどです。






 ところがこの慈悲の実現は、実に難しいのです。(きむ)さんが抱きしめ、ヤンキーがその温もりを受け容れて、涙をこぼした…。これは、風雪に耐えてこられた金さんだからできたことであって、私が同じように抱きしめてもヤンキーが涙をこぼすとは限りません。いや、「オッサン、気持ち悪いぞ」と怒らせることさえあるでしょう。

 また金さんが、他の場面で同じようにふるまっても、同じく相手が涙をこぼすかというと…、これもわかりません。相手の心情にもよるし、その場の状況にもよるし。かえって相手を傷つけたり、甘やかせたりと、逆効果になる場合さえあります。慈悲のふるまいに、マニュアルなどありません。つまり、正しくものを見る真実の智慧がなければ、真実の慈悲は成り立たないのです。

 真実の智慧を持たない者が、慈悲を実践するということは、極めて困難です。だから私たちは、相手のことを思うがゆえに相手を傷つけたり、相手のことを思うという建前で、自分の思いを押し付けたりと、すれ違い、仲違いをしながら、生きてしまうのではないですか。そんな理想と現実との隔たりを痛切に受け止め、冷静に見つめられたのが親鸞聖人でした。

 親鸞聖人は、自身を省みて
「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ」(『正像末和讃』)
とまでいわれています。
 小慈小悲とは、自分の身に関わりのある者だけに起こす、人間の小さな思いやりの心です。しかし、それすらも持ち合わせていないのが、この私であった。そんな自分が、世の苦悩する人々を救うためことなどできるわけがないと。
 もちろんこれは、本気で苦悩する人々を救いたいと行動した人にしかいえない言葉です。理屈だけで「オレにはできないし」と安易に考える私と、一緒にしてはいけません。親鸞聖人の言葉は、深い挫折と痛みが込められた言葉なのです。

 では、親鸞聖人は、「小慈小悲もない私だから、何もできない」と、ただ絶望されただけなのでしょうか。先ほどの言葉は、このように続きます。
「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」(『正像末和讃』)
 このような私たちのために、阿弥陀さまの願いが用意されている。苦しみの大海を渡る船のように、阿弥陀さまのはたらきが届けられているのだと。

 つまり、私たちは周りの人に慈悲を実践することはできない。しかし私たちには、阿弥陀様の大慈悲が届けられている。だからこそ、真実の慈悲の温もりを共にいただき、分かち合っていこうと、人生を歩まれたのです。
 阿弥陀さまは、この私を慈しみ、大切に思ってくださっている。私の苦しみに寄り添い、共に悲しんでくださる。そしてその大慈悲は、あなたにも届けられている。共に大慈悲に包まれている仲間として、温もりを分かち合いながら、お互いの存在を認め合い、尊び合いながら、歩んでいこう。これこそが、親鸞聖人の歩みであると教えられるのです。








 とはいっても、阿弥陀さまのはたらきでさえ、自分の手柄にしたがる私です。どこまでも「してやったのに」という思いも消えません。まさに、親鸞聖人が指摘された通り、「雑毒の善」(毒が雑じった善『浄土文類聚鈔』)そのもの。最後まで面倒を見切れないくせに、その場では良い顔をしたがるのも私です。阿弥陀様の「すゑとほりたる」(徹底した『歎異抄』)大慈悲心とは大違い。どこまでも、末通ることはありません。

 ただ、この自覚を与えられるからこそ、私は私を振り返り、問い直すことができるのです。「自分の正義を押し付けてはいないか」「相手のことを思っているか」「同じようなことを、繰り返していないか」と、我に返ることが。

 そしてこの営みの先に、また新たな出会いとふれあいが生まれてくるのだとも、知らされています。これもまた、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきによるものなのでしょう。私は、そういただいているのです。■