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| 2025(令和7)年8月 | |||
毎週木曜深夜に放送される、『アメトーーク』という番組があります。二十年以上も続く人気番組で、共通の趣味や特徴を持ったり、同じような経験をしたお笑い芸人さんを集め、決められたテーマについてトークするバラエティーです。 そこで以前、『定時制高校芸人』という回がありました。様々な理由で定時制高校に通っていた芸人さんたちが、様々なエピソードを語ります。年上の同級生とのちょっと変わった学園生活、切なすぎる文化祭…。それぞれの話がおかしくて、そして温かくて。中でも、一人の若手芸人さんが紹介してくれた話が、とても印象に残りました。 彼はよく、クラスメイトの金髪のヤンキーに虐められていたそうです。その日も絡まれていたところ、同じくクラスメイトの どうなることかと思ったその時、金さんは突然ヤンキーを抱きしめて、こう言いました。 「ここに敵はおらん!」と。 するとヤンキーは、突然ボロボロと涙をこぼし始めたというのです。 そんな風雪に耐え、痛みを知る金さんにとって、ヤンキーの粗暴なふるまいは、寂しさの裏返しに感じられたのではないでしょうか。だから、ヤンキーを抱きしめたのだと思うのです。 ヤンキーにしても、金さんのふるまいは意外なものであったことでしょう。これまで幾度も、同じような場面で、否定され続けてきた。ところが、このおばあさんは抱きしめてくれた。「ここに敵はおらん!」と。そして「ここには、あなたの居場所がある」と、自分の存在を認めてくれた。だから、そのヤンキーも涙を流したのだと思います。
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仏教では、この金さんのような心やふるまいを「慈悲」といいます。 「慈」とは、インドのサンスクリット語のマイトリーという言葉の訳なのですが、もともとは「友」「親しきもの」という意味で、相手を親しき者として、思いやり、慈しみ、大切に思う心です。 「悲」とは、カルナ―という言葉の訳で、「優しさ」「憐み」「情け」を意味します。このカルナ―には、もともと「うめき声」という意味があるそうで、そこから苦しみを共にし、悲しみを共にするという心をあらわすようになりました。 仏教学者の中村元先生は「慈悲行の実践者は『他人の苦しみを苦しむ人』である」といわれていますが、まさに金さんは自分のこれまでの経験を通して、ヤンキーの寂しさや苦しみに寄り添い、共に苦しまれたのです。だからヤンキーも、その温もりに触れて素直になれたのでしょう。 この慈悲の実現を目指すのが、仏に成る道、仏道なのです。「慈悲は仏道の根本なり」(『大智度論』)、つまり慈悲こそ仏道の中心であり、慈悲は仏そのものであるといわれますし、また「仏心とは大慈悲、これなり」(『観無量寿経』)、仏様の心を一言であらわすと大慈悲心だともいわれているほどです。 |
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とはいっても、阿弥陀さまのはたらきでさえ、自分の手柄にしたがる私です。どこまでも「してやったのに」という思いも消えません。まさに、親鸞聖人が指摘された通り、「雑毒の善」(毒が雑じった善『浄土文類聚鈔』)そのもの。最後まで面倒を見切れないくせに、その場では良い顔をしたがるのも私です。阿弥陀様の「すゑとほりたる」(徹底した『歎異抄』)大慈悲心とは大違い。どこまでも、末通ることはありません。 ただ、この自覚を与えられるからこそ、私は私を振り返り、問い直すことができるのです。「自分の正義を押し付けてはいないか」「相手のことを思っているか」「同じようなことを、繰り返していないか」と、我に返ることが。 そしてこの営みの先に、また新たな出会いとふれあいが生まれてくるのだとも、知らされています。これもまた、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきによるものなのでしょう。私は、そういただいているのです。■ |
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