2025(令和7)年9月



 
ある会議でのことです。キャリアを重ねられ、しかも影響力ある立場の方が、「これは、おかしいじゃないか」と指摘されました(いや、クレームといった方が正しいかもしれません)。

 すると、その経緯について詳しい方が、その指摘が的外れであること、それどころか指摘をされた側に対して失礼にあたることを、丁寧に伝えられました。

 それを聞いてクレームをつけた方は、「事情については、よくわかった。しかし…」と、あくまでも自分は間違ったことを言っていないと、主張し始めたのです(その主張も、かなりムリあるものでしたが)。

 他愛もない会議での、些細な話です。でも私は、そのやり取りを目の当たりにして「これは、大切なことを教えられたぞ」と背筋が伸びる思いがしたのです。
 考えてみれば、知らなかったとはいえ失礼なふるまいをしたと気づかされたら、まず謝るのが成熟した大人の態度でしょう。そこで自分の非を認めても、その方の品位は下がりませんし、キャリアに傷がつくこともありません。何せ、他愛もない会議の場なのですから。

 ところが私たちは、反射的に自分の正当化を優先してしまうのですね。どんなにキャリアを重ねた、影響力ある方だとしても。それは、不快な思いにさせた人を無視し、自分が不快にさせたという事実から目を逸らすことなのです。自分では取り繕った気になっても、周りから見れば浅ましいふるまいにしか見えません。

 「これくらいのことで、何を大袈裟な」と思われる方もあるかもしれません。しかし、「真実は細部に宿る」などという言葉もあるように、こんな他愛もないことにこそ、人間というものが露わになるのではないでしょうか。そして「これくらいのこと」と、軽く考えること自体、実はとても危険なことなのです(影響力ある立場の方は、特に要注意です)。




 



 イソップ物語に、こんな寓話があります。少年たちが、池にいる蛙に石を投げつけて遊んでいると、一匹の蛙が顔を出していいました。「どうか、やめてください。私たちに石を投げるのは、あなた方にとっては遊びかもしれませんが、私たちにとっては、死なのです」と。
(『少年と蛙』)

 実は私、長い付き合いの友人から「お前、あの時こんなこと言ったよな。オレはあの時、結構傷ついたんだぜ」といわれたことがあるのです。友人を傷つけるつもりなど、サラサラありません。無邪気な思いで、軽い気持ちでいった一言です。それが、彼を傷つけていた。自分にとっては小石のような些細なことでも、彼には深い傷跡として残っていた。そのことに気づかないまま、年月を重ねてきたことに申し訳なく、恥ずかしい思いをしたのです。

 「他愛もない」「些細な」と思うようなことで、人は深く傷つくことがある。だからこそ、細部をも問い直さねばならない(影響力ある方は、なおさらです!)。そして安易な自己正当化は、重ねて相手を傷つけることにもなりかねない。だからこそ、自分自身のふるまいを問い直さねばと、改めて背筋が伸びたのです。

 これは、昨今のSNS上で繰り広げられる、誹謗中傷の書き込みにも通じます。メディアが報じる断片的な情報だけで、自分に都合良く切り取り、安易な正義感を振りかざし、投稿する。しかしその中傷は確実に人を傷つけ、時には殺していく。こんなことは、いくらでも起こっています。
 書き込んだ人たちは言うのです。「軽い気持だった」「何気なくやっただけ」と。そうして自分を正当化し、開き直り、論破した気になる。しかしされる側にとって、それは「死」なのです。
 「そんなことを言われたら、何も言えないし、何も行動できない」と言われる方もあるでしょう。しかし、そのことに自覚的であることは、とても大切なことなのです。麻痺してしまうと、その残酷さに気づくこともできないから。ブレーキをかけることもできなくなるから。何より、安易な自己正当化の言葉は、傷ついた心をより深くえぐるのです。自分がされる側に回った時のことを考えると、ゾッとします。


 仏教学者の太田久紀先生は、「汚れが汚れを知るためには、汚れでないものがなければならない」といわれたそうです。汚れていない澄んだものとの出遇いがなければ、自分が汚れていると感じることはできない。逆に言えば、自分の汚れに気づかされたことこそが、澄んだ清らかな世界と出遇っている証拠なのだと。
 この清らかなる世界との出遇いを、浄土真宗では「阿弥陀さまとの出遇い」といいます。そして、阿弥陀さまとの出遇いの中で、自分のありようを深く見つめる営みを「慚愧」というのです。
 私たちは、自分では小石を投げて遊んでいるつもりでも、どこでどう人を傷つけているかわかりません。何をしでかすかわからない私である。そのことを忘れないままに、合掌する。そこにこそ、阿弥陀さまとの出遇いが、傷つけた相手との出会いが開かれていくのでしょう。







 ただし、真宗大谷派の僧侶・宮城先生は、慚愧するが故に陥る落とし穴について、警告されています。

「慚愧した。なかなかできない慚愧を、オレはした。なのに、あいつはできていない。オレは清らかな世界に出遇っているけれども、あいつは出遇えていない…」
こうなってしまうと、もう慚愧とはいえない。単なる自己正当化なのだと、宮城先生は指摘されるのです。

 なんと、切れ味鋭いツッコミなのでしょうか!心当たりがありすぎて、ぐうの音も出ません。私たちは、どこまでも反射的に自己正当化するのでしょう。慚愧さえも利用して。そうして慚愧したことが、かえって慚愧に反する心になってしまう。この事実を親鸞聖人は、「無慚無愧」といわれているのだと宮城先生は示されるのです。

  「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
     弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」(『正像末和讃』)

 そんな無慚無愧の身の事実と向き合い、常に自らのあり方を問うていく。「弥陀の回向の御名(阿弥陀さまの呼び声であるお念仏)」という、私をうながしている世界と常に出遇い直していく。その営みこそが、まさに合掌するということなのだと教えられるのです。

 いやはや、仏法の世界は深い。そして私の迷いも、これまた深い。そんなことを味わいながら、今日もまた手を合わせ、自分の生き方を問い直さねばと思っています。■