2026(令和8)年1月



 
昨年は、何度も入院を繰り返しました。二泊三日の短いものも含めてですが、やはり病院生活はつらいもの。それに比べて、家は良い!居心地の良さと安心感を、しみじみ感じております。

 私は入院する際に、必ず大部屋(四人部屋)をチョイスします。なぜなら私が入院する病院では、個室に入るには一日につきプラス6,600円かかるのです。がん治療にはお金がかかりますし、仕送りを送る大学生を抱える身には、痛い出費。必然的に、大部屋となるわけです。


 さて、あれは二回目の入院をして二週間くらいたった時でしたか。二三日前に隣のベッドに入ってきたおじいさんが突然、仕切りのカーテンを開けて、「お前、オレに一言もないのか!」と怒鳴りつけてきました。
 「何のことですか」と答えると、「いびきがうるさい!昨日は特に酷かった。お前、気がつかんのか!」と、ブチ切れ状態。
 そういえば前の日、看護師さんに部屋を変わりたいと言ってたっけ。でも、プラス6,600円だから断念したって聞こえてきたな。あれは、夜中の3時頃に電気をつけてゴソゴソする人が原因だと思っていたけれど、犯人はオレなのか?今まで同部屋の人から、言われたことなんてなかったのに。とはいっても、自分ではコントロールの仕様もないし。寝るなって言うことか?

 戸惑う私に続けて、「お前は、遅くまでパソコンしてるだろう。消灯は九時なんじゃないのか!」と言われました。確かに消灯は九時がルールですが、寝付けない時には、看護師さんからもお目こぼしをいただき、パソコンで動画を見て過ごしています。
 但し、隣りに光が向かないよう角度を考え、音も出ないように細心の注意を払いながら(私の実験によると、画面の光量を落とせば、スマホを見るのと殆ど変わりません)。とはいえ、言われることは正論ですから、仕方なく退院までの一週間は個室に移り、痛い出費となりました。

 おじいさんも、病気や慣れない環境で、ストレスを感じていたのでしょう。でも、それはこちちも同じなのですが。後に先生や看護師さんに聞くと、直接クレームをつける患者さんは滅多にいないようで、「大部屋って、そんなものだし、お互い様なんだけどね」「普通は、自分が個室に移るのに」「災難でしたね」と慰められました。



 ところが、その夜から眠れなくなったのです。個室に移っても、その後の入院で、大部屋に入っても。「いつ、どこで、何を言われるかわからない」という恐怖が沁みついてしまったのか、委縮して、周りの目を気にするようになったようで。当然パソコンも、夜は使いづらくなり、長い夜を何度も送ることになりました。その分、家に帰るとグッスリ。やはり家は、かけがえのない場所です。



 



 さてそんな中、また入院する日がやってきました。今度は三週間の予定。長いなぁ、つらいなぁと思いながら、また大部屋へと入ったのですが、何と今回は、快適な夜を過ごすことができたのです。

 なぜなら、今回同室になった人たちは、ある意味問題児ばかりだったから。

 生活音(ガサガサ、ゴソゴソ、ボリボリ…)がうるさい人。
 寝れなくて灯りを点けっぱなしにしたい人。
 足が弱っているから一人でトイレに行かないよう注意されているのに、夜中に一人で行って転ぶ人など。
 私よりも、爆音のイビキをかく人もいました。同部屋の人が「あの人、凄いねぇ」と話しかけてきたほどですから。
 これなら、私が少しくらいイビキをかいたり、パソコンを見てもいいんじゃないかと安心でき、逆にグッスリと眠れたのです。


 「お互い様」と思える環境にあることは、本当に生き易い。そのことを痛感しました。同時に、病院の大部屋は、私たちの社会の縮図のようだとも思ったのです。


 大部屋は、カーテンで仕切られるだけですから、他者の音やにおいを遮ることはできません。おまけに生活習慣も違う、それぞれに事情を抱えた人が集まっている。だから、「そんなものなんだ」「お互い様だから」を前提にして、大らかに受け止めた方が、お互いが生き易い。かつては多くの人が、それを共有していました。
 もちろん行き過ぎた迷惑はアウトですが、前提を踏まえた上での対処方法があったわけです。そして実は社会も、大部屋のようなものであるはずなのです。

 ところが今や、生活スタイルが変わり、プライベートが守られる個室のような生活が当たり前になりました。その感覚で大部屋にいれば、被害者意識は高まります。でも、ここは大部屋なのです。あなたも、多かれ少なかれ、音やにおいは出している加害者です。にもかかわらず、個室感覚の正論がふりかざされた時、大部屋は急に息苦しくなります。
 確かに、言っていることは正しい。そのルールもある。ただ、それを言うと、生きづらくなる正論ってあるんですよね。みんなが委縮する言葉が。人間の営みの事実を、無視した正しさが。そんな言葉が今、病院の大部屋だけでなく、社会全体に広がっているように思うのです。
 








 実はここに、重要なキーワードがあります。それは、「お互い」という言葉です。関係を持つ双方という意味の「互い」に「お」をつけた美化語。つまり、それぞれの立場を尊重する言葉です。

 「自分だけ」で考えれば、ことは単純。相手の立場は考えなくて良いし、自分にとって悪い奴は裁けば良い。でも、それはあくまでも個室感覚。病院の大部屋も、いや社会全体も、「お互い」で成り立っているのです。
 「自分だけ」が主語の正論は、「お互い」を生きづらくさせ、時には他者の居場所を奪う圧力となります。主語は「自分だけ」なのか、「お互い」なのかを問うことは、かなり重要な一歩だと思います。


 作家の北方謙三氏は、自らの作品の登場人物に、こんな言葉を語らせています。

「法は、いつでも人のために作られる。どんな法も最初はな。それから、少しずつ執行する者が都合よく解釈するのだ。そういうことができないようにしても、時が経つとそうなる。/つまりは、法そのものよりも、それを扱う人ということなのか」(『水滸伝』北方謙三)

 「お互い」のための法が、いつしか「自分だけ」の解釈で執行され、気がつけばみんなを苦しめるものに変わっていく。それはルールのせいではなく、あくまでもそれを扱う人の問題なのだと。確かにそうだと思います。しかも、その都合の良い解釈は、無自覚に行われることも多々あるのです。



 例えば、未成年の飲酒・喫煙の禁止というルールは、体の成長や健康への悪影響を考えて定められたもの。ところが今や、ルールを犯した者を裁くためのツールになっています。そして、ルールを守らない者は、一昔前では考えられないほど、厳しく処分されるようになりました。

 でもそうすることで、未成年を取り巻く環境は、どうなったのか。失敗は許されなくなり、「いつ、どこで、何を言われるかわからない」と委縮して、周りの目を意識しながら生きなくてはならない、そんな息苦しいものになってはいないでしょうか。これは未成年の健康どころか、人生そのものに悪影響を及ぼしかねない、深刻なものだと思います。

 結局、優先されているのは、何なのか。「自分だけ」の都合の良い解釈ではないのか。本来の目的や、処分された人のその後は考えられているのか。安易に正論を語る人は、そのことに無自覚なのです。自覚が無いから、止まらない。振り返ることもない。これは怖ろしいことだと思います…などというと、正論で叩かれてしまうかもしれませんが。

 かつては、落しどころを作ったり、お目こぼししたり、曖昧にしたり、自分の思いにブレーキをかけることが、「お互い」が生き易い環境を作るための知恵として共有されていました。そこには「お互い様だよな。みんな音もにおいも出すし、間違うこともある。人間って、本来そんなもんだよな」という、人間の営みの事実も共有されていたのです。そこには、「私にも居場所がある」と思えるような、安心感がありました。







 

 仏教において「正しくものを見る」とは、自己中心的で偏った見方をせず、物事をありのままに認識することです。「ありのまま」とは、本来かなり奥深い概念なのですが、ここでは、「自分だけ」の価値観に偏った都合の良い解釈をしない、「お互い」を意識すると、受け止めても良いのではないかと思います。

 でも、自分の都合から離れるなんて、かなり困難なミッションです。自分は離れているつもりでも、ガッツリ捉われている、なんてこともよくあるケース。ましてや、すべての立場を理解する、なんてことはできるはずもありません。


 実は、そんな「できない自分」を自覚することが、いかに重要なのかを教えてださるのが、阿弥陀さまのお念仏なのです。
 「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えると、自分が問い直されていきます。
 自分の都合に捉われてはいないか。
 お互いを尊重しているか。
 私には気づけていないことがあると、謙虚な態度でいるのか。
 そう問われるとき、自分の心が落ち着き、整えられていきます。自分の思いにブレーキがかかる。我に返り、人間の営みの事実を前提とできる。この一歩が、その後のふるまいを決定的に変えていきます。
 正論に委縮する時代だからこそ、この一歩はとても重要なものだと思うのです。



 答えは、簡単に出るものではありません。でも、安易な答えにすがると、生きづらさは増していきます。まずは心を落ち着かせ、立ち止まる。人間の営みの事実と、向き合っていく。そこからしか、何も始まらないのだと教えられるのです。■