

|
| 2026(令和8)年2月 |
徳島県の最南端、高知県との境で、「海部川風流(フル)マラソン」という大会が開催されていました(現在は、ボランティアの高齢化、開催費用と財源等の問題に、コロナウイルス感染症の影響が重なり終了)。実はこの大会、ランナーに大人気で、ランニング情報サイトの口コミで5年連続全国1位を獲得するほどでした。徳島市内から車で2時間。不便な場所で、しかも高低差がきついタフなコース。なのに、なぜそこまでの人気を誇っていたのでしょうか。
その秘密は、地域の人たちのあたたかな接待にありました。この地域は、お遍路さんをもてなす文化が根付いており、幼稚園の子、おばあちゃん、町の人たち全体で応援してくれるのです。阿波踊りや太鼓の演奏もあり。畑から、おばちゃんが身体いっぱいにしてくれる応援や、道端の子どもたちとのハイタッチ等々。
中でも、ランナーに一番好評だったのが、地元海南高校陸上部の生徒たちが、ゴール前最後のきつい坂道を伴走してくれることでした。ゴール前に続く坂道。一番苦しい時に、「頑張ってください」と声を掛けながら、一緒に走ってくれる人がいる。これが一番力になるのだそうです。
マラソンは一人の競技です。走るのは一人。でも、歓迎される、応援される、一緒に走る。これが力になる。まったく違うと、ランナーは口を揃えるのです(NHK BS『ラン×スマ〜街の風になれ〜』)。
残念ながら、私は長距離走が大の苦手で、マラソンなんてとんでもない!というタイプの人間です。だからランナーの気持ちはわかりませんが、人生を歩むことにおいては、共通するところがあるのではと考えさせられました。
マラソンで走るのも、私たちが人生を歩むのも、所詮は私一人のこと。『大無量寿経』には「独生独死独去独来(人は独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来る)」という一節もあります。しかし、一人で歩む人生においても、歓迎され、応援され、共に歩んでくださる方があることは、とても大きな力になります。一人で歩むものとは、まったく違う景色が広がります。
|
|

|
児童文学研究者で、青山学院女子短期大学名誉教授の清水真砂子先生は、ある時新入生に「子ども時代の一番幸福な思い出は?」と質問したそうです。ところが最初の年に出てきたのは、何かを買ってもらったこと、どこかに連れていってもらったことばかりでした。
清水先生は、幸せを感じるとは、そういうこととは違うのではないか。近頃の子は、消費やイベント事でしか幸福を感じることができないのだろうかとガッカリし、友人である昔話の語り手・藤田浩子さんに話しました。
すると藤田さんから、「それは訊き方が悪い」と即座に言われたそうです。実は彼女も、同じ質問を子どもたちにしたことがあるそうで、今の消費社会では「放っておけば、そういう答えしか出てこないのは当たり前だ」とも言われました。
では、どうすれば良いのか。そこで藤田さんは、消費やイベント事を除いた「子ども時代の一番幸福な思い出は?」と訊くことを薦めてくれたのです。実際にやってみると、出てくること、出てくること。地味で些細なことでも、一つ一つの物語が光っていたと言われます。
|
|

|
|
ある学生は、こんな話をしてくれました。幼稚園の頃、おばあさんが入院していて、おじいさんとよく病院にお見舞いに行っていた。
その電車の中で、おじいさんが隣に座っている幼い彼女の膝を、優しくトントントントン叩き続けてくれた。「先生に言われて、そのことを思い出しました。考えてみると、あのトントントントンが、今までずっと私を支えてくれたのかもしれませんね」とその学生は言ったそうです。
また、ある学生はこう言いました。まだ靴下を自分で履けないくらい小さかった頃、母親はいつも靴下を履かせてくれた後に、足をクルっと撫でてくれた。あの撫でてもらった感触が忘れられない。
他にも、自転車を練習していた時に、お父さんが後ろをまだ押してくれていると思っていた。気がつくと手が離れていたけれど、お父さんが見守っていてくれて、自分と繋がっているように感じたとか。地味で些細なことだけど、どれもがあたたかく、温もりが込められているお話です。読んでいるこちらも、胸があたたかくなってくるようです。
清水先生は言われます。日常にあるそういう幸せを受け取る力を、子どもはしっかりと持っている。にもかかわず、手許に手繰り寄せる力が弱まっている。消費やイベント事に目を向けさせられ、見えなくなっている。そして、自分たちの日常なんてつまらないものと思い込まされ、語るに値しないものだと思い込まされていく。そういう力が今、私たちにいろんな形でのしかかってきているのではないかと。(『幸福に驚く力』清水真砂子)
きっと誰もが、自分の人生を掘り下げれば、私に向けられた温もりの記憶が必ずあるはずです。そして実は、そんな温もりこそが、今の私を支えてくれているのではないですか。
向けられた温もりは、「私がここにいていいんだ。私は求められ、願われている」と思える根拠になります。「私は歓迎され、応援されている。共に歩んでくださる方がある」と実感できる拠り所でもあります。その時に、気がつかなくても。その人が、すでにこの場に、いやこの世にいなくても。手触りのある確かな温もりは、私を支え続けてくださるのです。
しかし現代社会においては、清水先生が危惧しておられる通り、消費やイベントに目を向けさせられ、温もりが見えなくなってはいないでしょうか。そして、自分たちの日常なんてつまらないもの、語るに値しないものだと思い込まされてはいないでしょうか
このような時代だからこそ私は、私たちの「いわれ(由来、由緒、因)」を味わう営みを、取り戻すべきではないかと思っているのです。
|

|
|
浄土真宗では、仏法を聴聞するとは、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ことだと教えられます。それは、迷いを迷いと気づくこともなく迷いを深める私のために、阿弥陀さまが本願をたて、お念仏を用意し、はたらきかけてくださっている。その阿弥陀さまのはたらきを聞くということです。
同時にそれは、この私のために、どれほどの深い願いやはたらきが向けられているのかを味わう「私のいわれ」を聞くことでもあるのです。私がどれだけ大切に願われているのか、私に届けられている温もりがどれほど深いものかを掘り下げていく。手許に手繰り寄せていく。それが「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ということでもあるのです。
そして、この私への温もりを深く味わう時、それを受け取るセンサーの受信能力は高まり、様々な方からの温もりにも気づかされていきます。だからこそ、浄土真宗は「恩」を大切にするのでしょう。
近頃は「恩」と言うと、「恩着せがましい」「鬱陶しい」といった、負い目を感じさせるようなイメージが流布していますが、それらとは似て非なるもの。なぜなら人生とは、そんな薄っぺらな貸し借りで量るものではないのですから。
「恩」とは字の如く、「因(いわれ)」に気づく「心」です。この私に向けられた温もりに気づく心であり、私の人生の深さと広さ、そして重さを味わう心でもあります。
そして「恩」を知る時、また新たな出会い直しが開かれていくのでしょう。その方はすでにこの場に、いやこの世にいなくても、共に生きていく歩みが始まっていく。そこには一人で歩むものとは、まったく違う景色が広がっていくのだと教えられるのです。■
|

|
|
|
|