2026(令和8)年6月


 
今月の言葉は、中国の高僧・曇鸞大師が著された『往生論註』という書物に出てくるもので、親鸞聖人も引用されている譬えです(元ネタは、中国の古典『荘子』だそうですが)。

 セミは夏に地上に出て成虫となり、夏に死んでいく。つまり夏に生まれて、夏に死ぬ虫だ。ならば、夏のことをよく知っていると考えてしまうが、それは違う。
 セミは、春や秋があることを知らない。夏以外の季節を知ることで、今を夏だと知り、深く味わえるのであって、夏しか知らない者が、本当の夏を知るはずがない。というところから、狭い視野だけで物事を判断する愚かさを譬えたものです。


※「いやいや、セミは土の中で生きている。しかもそこで春や秋を経験しているはず。だから、この譬えはおかしい!」などと、無粋なことは言わないでくださいね。譬えを通して、何を伝えようとしているのか。そこに、ご注目ください。もちろん、セミが愚かだと言っているわけでもありません。





なるほど、確かにそうだと思います。
 例えば、長門市の絶景スポットとして有名な元乃隅稲成神社は、2015年にアメリカのニュース専門放送局・CNNが発表した「日本の最も美しい場所31選」に選ばれたことで、一躍有名になった場所。
 地元の私たちには当たり前にしか映らなかった景色が、外国の方の視点で、その魅力を明らかにされたわけです。
 長門以外を知るからこそ、長門の魅力を深く味わうことができる。長門しか知らない者は、長門の魅力を当たり前と感じ、その素晴らしさに気づけない。違う視点を持つことで、目の前の世界がより深く、豊かになるという指摘には、うなずかされます。

 それは、歴史を知ることで今が見えてくることにも通じます。
 近頃は、目先の「損か得か」「快適か不快か」といった狭い視野での考え方が広がっています。まあ、スピード化(速く、効率よく、最短距離で)を目指す世の中では、視野が狭くなってしまうのもわからないではありませんが。でも、長い歴史があって、今があるのです。これまでの流れを無視し、今だけしか見ない在り方は、人間が積み重ねてきた英知をないがしろにするだけでなく、人間が繰り返してきた過ちに学ばないということでもあります。そして、自分の危うさに気づくこともなく、懲りずに同じ過ちを繰り返すのでしょう。どこかの大統領の浅ましい姿からも、それは教えられます。

 また、過去に思いを馳せることは、未来へ心を伸ばすことでもあります。先人から大切なものを受け継いでいるという自覚は、それをどう未来へと伝えるか、何を遺すべきかというふるまいへとつながります。過去や未来を意識することで、今の生き方に芯が通るのです。逆に、今だけを追い求める生き方は、目先の損得や快楽ばかりを追い求め、先人が積み重ねてきたものを壊し、「私が死んだ後のことなんて、知らないよ」という身勝手な生き方につながるのではないでしょうか。


 加えて、自身の生活をふり返ってみれば、私は若さの真ん中にいる時に、若さとはどんなものなのかを理解していなかったと思います。老いと向き合うことで、改めて若さの素晴らしさを思い、若さゆえの未熟さに赤面するのです。もちろん、単に歳を重ねることと、老いと向き合うことは似て非なるもの。若さに執着し、老いを忌むべきものと目を背けているなら、頭は未だ若さの真ん中のまま。それでは、老いの豊かさも若さの本質もわからないでしょう。違う視点に立つからこそ、見えてくるものがあるのです。

 そして今の私は、病いを通して健康の有り難さに気づかされ、健康であるがゆえの傲慢さを教えられています。死を突きつけられることで、生のかけがえのなさを知らされます。それだけ、健康や生きるということに対して、ぼんやりとしか向き合ってこなかったのですね。狭い視野だけで物事を判断することの愚かさを、痛感させられています。




 


 考えてみれば、私たちはこの世に生まれ、死んでいきます。だから、この世のことをよく知っていると考えてしまいますが、この世しか知らない者が、本当にこの世を知っているのでしょうか。

 宗教学者で真宗僧侶である釈徹宗先生は、「すべての宗教は、この世の〝外部〟を提示することによって、日常を相対化する」のだと言われています。私たちに日常の外側にある世界を示すことで、視野を広げ、日常を見直させるものなのだと。
 浄土真宗においては、「お浄土」「阿弥陀さま」「彼岸」がそうですね。外の世界とつながることで、この世とは違うものの見方が明示され、別の価値観が生み出されていくのです。
(『いきなりはじめる仏教生活』)

 但し、それは「日常の〝外部〟で生きていけ」と主張しているわけではないと、釈先生は喝破されます。むしろ〝外部〟とつながることで、この世が明らかになり、深まることを説くのです。
 行きっ放しだと、これはまずい。過度な献金で、家庭が崩壊することも厭わないのは、その典型です。教祖の言葉を絶対視し、殺人さえも厭わない。これも行きっ放し。どこまでも視野を広げ、日常を深め、生きることの方向性を確かめるために〝外部〟とつながるのです。





ちなみに釈先生は、〝外部〟とつながる窓口として、お仏壇を薦められています。
 そこで、仏さまを思いながら日常を見直す。老病死と向き合い、人生を生きる。うれしいことや悲しいことを語りかけ、苦悩があれば相談する。亡き人を想い、いのちの歴史を感じていく。

 〝外部〟とつながる窓口を日常に設定することで、この世がより深く豊かに味わえる。そんな先人の英知を受け継ぎ、次の世代に遺していかなければ、スピード化で視野が狭くなる世の中に流され、いつしか自分を見失ってしまうのではないか。
 そういうことを、このセミの譬えから考えさせられるのです。■