いやぁ、暑いですね。年々暑さが厳しくなってきました。その為、今年から時間を早め、盆法座の日程を八月十四、十五日の午前九時からに変更しました。
また、これまで十五日には、「盆法座」に兼ねて「魚法会」を勤修していました(漁村ならではですね)が、これも少し形を変えることにしました。「魚法会」と「全戦争犠牲者追悼法要」を兼ねて『いのちを尊ぶ法要』とし、法要後に「平和の鐘」を参拝者の皆さんと撞くことにしたのです。
八月十五日は、終戦記念日。虚しく、悲しく、残酷な戦争は、昔の話ではありません。今でも尚、世界中で続いています。戦争は、一部の政治家がするものではなく、価値観、空気など、日常生活の積み重ねであることは、歴史が教えてくれるところです。
私たちの先輩方は、魚のいのちを奪わねば生きていけない悲しみと痛みの中で、「魚法会」を勤めてこられました。痛みがあるということは、尊んでいることの裏返しです。しかし今や、魚は海産資源としてしか見られません。つまり、「役に立つか、お金になるか」でしか扱われなくなっているのです。そしてついには、人間さえも同様に扱う時代になりました。
尊いいのちを奪い、いただきながら、生かされている。そのことに悲しみや痛みを感じることがなかったら、いのちの重さがわからなくなります。それは周りのいのちだけではなく、自らのいのちをも軽く扱うことになるのです。戦争も、その延長線上にあるのでしょう。
阿弥陀様の光に照らされ、自らを振り返り、いのちの尊さを味わう。その思いと平和への願いを、響き渡る鐘の音に重ね、周りのいのちを尊ぶ生き方の一歩としていく。そんな願いを込めています。■
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