消費が覆い隠したもの
 
2010(平成22)年


 

お取越しとは、親鸞聖人のご法事「報恩講」を取越して(早めて)、各家々で勤めるという真宗門徒にとって大切な伝統行事です。ところが最近は、「どうして親戚でもない人の法事を勤めなくてはならないのか」と言われかねませんし、「年に一度の先祖への供養」だと思われている方もあるでしょう。でも、大切な意味があるのです。

 

児童文学研究者で、青山学院短大元教授の清水真砂子先生が、学生に「子ども時代に一番幸福を感じた想い出は何か」と質問したそうです。すると、「どこへ連れて行ってもらった」「何を買ってもらった」といった消費事、イベント事しか出てこない。「最近の学生は、そんなことしか想い出がないのか」とがっかりすると、ある方から、「それは質問が悪いですよ。消費・イベント以外での想い出を聞いたらどうですか」とアドバイスを受けました。早速質問してみると・・、やはりなかなか出てきません。

ところがしばらくすると、「私は小さい頃、お母さんに靴下を履かせてもらった後に、おかあさんからクルッと足をなでられて、うれしかった」とか、「おばあちゃんの御見舞に行った時、電車の中で、隣に座ったおじいちゃんが、私の足をトントンたたいてくれた」とか、あたたかな想い出がどんどん出てくるのです。最後には、「先生、私はあのトントンに支えられて、今まで生きてきたような気がします」と話してくれました。

その時清水先生は、「最近の学生は、可哀相だ。大切なことを受け止める心は持っているのに、消費やイベントに覆われて、それが見えなくなっている。」と言われたそうです。

 

 ある方から、「楽しいことはお金と時間があれば手に入れることはできるが、喜びはそれを味わう身に育てられなければ、味わうことができない」という言葉を教えられました。確かに、楽しみはお金と時間があれば、いくらでも手に入れることはできますが、「もっと、もっと」と切りがありませんし、与えられていることに喜びを感じることができなければ、いつまでも満足も感謝もできません。実は、喜びを味わう身に育てて下さるのが、親鸞聖人が教えて下さった、お念仏の教えなのです。私たちの先輩は、お取越しという行事を通して、喜びを味わう身に育てられたのです。そんな世界に出遇うことが、自分自身の人生を、そして周りの人、亡き人の人生を、より豊かで尊いものとしていただくことに繋がるのではないでしょうか。■