お取越しの季節です 

 

 
 
 
 

「お取越し」とは、真宗寺院において最も大切な行事である親鸞聖人のご法事「報恩講」を、ご命日よりも取越して(早めて)、各家々で勤めるという門徒にとって大切な伝統行事です。ところが近頃は、「どうして親戚でもない人の法事を、勤めなくてはならないのか!」と怒られそうな時代になりました。しかし、親鸞聖人が亡くなられてから今年で七百五十年。長い歴史を通して、「伝えなくてはならない願いがある」「受け止めなくてはならない尊いご恩がある」と私たちのご先祖や先輩方が、その心を「お取越し」という行事に込められて、私たちのところにまで届けて下さっているのです。

 

いよいよ来年一月から、萩を舞台にしたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』が始まりますが、今年の『軍師官兵衛』もいよいよ佳境を迎えるところです。主演の岡田准一くんは、本当にいい役者になりました。

 さて、『官兵衛』の中で、織田信長と本願寺が争っている場面がありました。その際、NHKに「本願寺のご本尊が、間違っている。阿弥陀様の御像ではない。」という指摘があったそうです。確認してみると、間違えてお釈迦様の像がおかれていました。

近頃は、若い人に仏像マニアが増えているそうですが、釈迦如来像と本願寺の阿弥陀如来像の違いは、マニアや専門家でなくてもわかるほどはっきりしています。お釈迦様は座っておられるのですが、本願寺の阿弥陀様は立ち姿なのです。浄土真宗のお寺では、座ったお姿のご本尊はありません。ところが実は、仏様は座っておられるのが本来の姿なのです。浄土真宗のお寺以外で、立ち姿の仏像はないのです。(菩薩像や天人像は立ち姿もありますが、あくまでも菩薩や天人であり、仏様とは違います。)

 

善導大師という方は、この阿弥陀様の立ち姿を「軽挙」であると、仏様にあるまじき軽々しいお姿だと言われています。では、なぜ浄土真宗では、立ち姿の阿弥陀如来像をご本尊とするのでしょう。


それは、迷いを迷いとも気づかずに、迷いを深める私たちを心配し、思わず立ち上がらずにはおれない心をあらわしているからです。仏様にあるまじき軽々しい姿をせざるをえないほど私たちのことを思って下さる阿弥陀様の心を立ち姿であらわしているのです。横から見ると、前に身を乗り出しておられるのがよくわかります。

(今度、極楽寺にお参りの際に、ぜひご確認下さい。ただし、必ず住職に一言声をかけてからにして下さいね。)

 

阿弥陀如来という仏様は、私から何か願い事をする仏様ではありません。私が気づくよりも先に、心配して下さる、願いをかけて下さる、はたらいて下さっている仏様です。私が手を合わせるときも合わせないときも、忘れているときでさえも、はたらき続けて下さっている仏様なのです。

親鸞聖人は、その深い心に目覚め、その願いを私たちに教えて下さった方でした。そして、親鸞聖人が指し示され、自ら歩まれたみ教えをいただくご縁として、お取り越し報恩講は用意されたのです。私にかけられている願いや心に気づくとき、生き方は必ず変わってきます。■