矛盾を抱えるからこそ

2016(平成28)年





 
「お取越し」とは、真宗寺院において最も大切な行事である親鸞聖人のご法事「報恩講」を、ご命日よりも取越して(早めて)、各家々で勤めるという門徒にとって大切な伝統行事です。ところが近頃は、「どうして親戚でもない人の法事を、勤めなくてはならないのか!」と怒られそうな時代になりました。しかし、親鸞聖人が亡くなられてから約七百五十年。長い歴史を通して「伝えなくてはならない心がある」と、私たちのご先祖や先輩方が「お取越し」という行事を、私たちのところにまで届けて下さっているのです。


 近頃は、「人に迷惑をかける」ことを怖れたり、「かけられる」ことに怒りさえ感じる人が増えているようです。「迷惑をかけるような私は、生きる資格がない」という人や、「迷惑をかけるヤツは死んだ方がいい」という人もいるのだとか。
 でも、よくよく考えてみれば、人に迷惑をかけずに生きている人なんて、この世の中にいないでしょう。皆んな人に迷惑をかけて、心配をかけて、許されて、ここまで育てられてきたわけです。
 「お金を払っているのだから、迷惑をかけていない」という方もあるようですが、それは薄っぺらなものの見方です。何より、本当に世の中がお金や損得だけで動いているのであれば、もっとシビアでギスギスしているはず。自分が払った金額に見合うだけのものしか得られないというのは、残酷ですよ。実は、お金とはまったく違う価値観で支えて下さる方があるからこそ、この世の中が成り立っているのです。長いいのちの歴史があるからこそ、今私たちはここにいるのです。私たちは、様々なものをいただいて生かされているのだということを、自覚しなければなりません。
 しかし、「迷惑をかけなくては、生きていけない」からと、開き直り、感謝することもなく、ふんぞりかえった生き方もどうかと思います。「迷惑をかけてはいけない」ということと、「迷惑をかけなくては、生きていけない」という、一見矛盾することを同時に抱える中で、感謝したり、反省したりということがあるからこそ、人生に深まりが生まれ、味わいも生まれてくるのではないでしょうか。


 昔、テレビで『ほこ×たて』というバラエティー番組がありました。やらせ問題で打ち切りになりましたが、とても面白く見ていました。番組タイトルは、「矛盾」という言葉からとったもの。
 ある商人が、「うちの矛は、どんな盾でも突き通すすごい商品だ」と言いながら、同時に「うちの盾は、どんな矛でも防ぐ、すごい商品だ」と売り出していたところ、お客さんから「では、その矛でその盾を突いてみろ。」と指摘されたという中国の故事から、辻褄が合わない、道理が合わないことを、ホコとタテで「矛盾」というのは、皆さんご存じのことでしょう。
 番組では、「絶対に穴の開かない金属 VS どんな金属にも穴を開けられるドリルの対決」や「絶対に開かない金庫VS最強の金庫開け職人」といった、まさに最強の矛と最強の盾の対決が行われます。対決ですから、当然勝ち負けがはっきりしますが、負けた側が悔しがり、研究し、リベンジを申し込みます。申し込まれた側も、さらに研究し、負けないようにと取り組んでいく。相反する二つのものが向き合うからこそ、お互いが磨かれ、深まり、成長していくことがあるのだと、番組を通して教えられました。

 同じように、「迷惑をかけてはいけない」と「かけずには生きられない」という、相反するもの、矛盾するものを抱えていると、片方に偏ると「それで大丈夫か」と反対側から問われ、反対側に偏ると「それでいいのか」とまた問われていく。すると考え方や見方が、どんどん深まり、耕されていくのです。
 問われなければ、深まりません。偏って決めつけたら、薄っぺらなままそこで終わりです。実は、親鸞聖人という方は、まさしく相反する二つの間を、行ったりきたりする中で、人生を深く見つめられた方でした。「この私を、必ず救うと誓われた阿弥陀如来がおられる」ことと、「決して救われようのない身である」という、相反し、矛盾することを受け止めることで、両方から問われ、深められたのです。罪深いと自虐的にならない。救いの中に寝転がらない。開き直らない。常に、常に、揺り動かされ、問われていく。だからこそ、親鸞聖人の生き方は深くて重いのでしょう。


 舞台演出家の鴻上尚史さんが、『戦力外捜査官』(出演 武井咲 EXILE・TAKAHIRO)という作品で、初めて連続テレビドラマの脚本を書かれたときのこと。土曜日の9時放送ということで、子どもたちも見るからと、できるだけわかりやすい演出を求められたそうです。鴻上さんは「人生の中では、悲劇の中にも笑いはあるし、喜劇の中にも悲しみはある」という思いで、悲しい話の中にも笑いの要素を入れ、楽しい話の中にも悲しみの要素を入れられました。確かに、人生ってそんなものですよね。悲しみと喜びという矛盾した感情が、渾然一体となって分けることはできません。
 ところが、「これは悲劇か喜劇かわからない。鴻上尚史は迷走している。」といった意見が寄せられる。少し複雑な演出をすると、良くない反応がほとんど。鴻上さんは、「今の人たちは、1か0のように、頭がデジタル化している。複雑さを受け止められない。」と指摘しておられました。

 人生は、単純なものではなく、薄っぺらいものではない。複雑だからこそ豊かであり、矛盾を抱えるからこそ深まるのです。このような時代だからこそ、親鸞聖人の生き方を通して学ばなくてはならないことがあるようです。■