お取越しの季節です 

 

 
 

「みんな」のお寺 

 





 先日、「今でしょ!」でお馴染み、予備校講師でタレントの林修先生の番組で、京都・宇治にある平等院鳳凰堂の特集をしていました。建物は十円玉に刻まれ、一万円札の裏側には屋根に立つ鳳凰像が描かれるほど、世界遺産にも指定された有名な寺院です。2014年に五十六年ぶりの修理が終わり、創建時の美しい外観によみがえったことで、今や数多くの観光客が訪れ、内部の拝観は平日でもかなりの時間を待つのだとか。出演者の方々も、こだわり抜かれたその美しさに、圧倒されたようでした。





 平等院は、阿弥陀如来の浄土を表わしています。浄土真宗のお寺の荘厳と同じです。しかし、建物の性格は、まったく違います。そもそも、建てられた理由からして違うのです。

 平等院は、1052年関白藤原頼通によって創建されました。
 頼通は
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」
(この世は、自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように、
 自分の思いどおりにならないことはない)
と歌った藤原道長の長男です。つまり平安時代、権力を握っていた藤原氏の中でも、最も栄華を極めた時期に建てられたもの。
 そしてそれは、「この栄華が、死後の世界にも続くように」という願いによるものでした。もちろんその願いの中には、庶民の存在は入っていません。つまり平等院は、藤原氏のためのお寺なのです。今でこそ、私のような庶民も拝観料さえ払えば入れますが、当時では考えられないことでした。
 林先生の番組に、時折出演される本郷和人東京大学教授は、平安貴族は「民衆のことなど考えもしなかっただろう」と言われています。しかし当時の感覚では、それが当たり前だったのです。




 ところが鎌倉時代に入ると、状況は大きく変わります。本郷先生は
「鎌倉幕府とは何かを一言でいうならば、在地勢力の自立です。/貴族に相手もされていなかった在地の勢力が、自分の土地を自分で守り、連合して自前の秩序を作ろうとした動きが、鎌倉幕府の成立につながったのです。」(『日本史のツボ』本郷和人)
と言われています。

 それは宗教的な救いについても、同様でした。鎌倉時代には、法然聖人や親鸞聖人に代表されるような、鎌倉仏教とよばれる新たなムーブメントが起こります。これらの教えが武士や民衆に広がったのは、これまでの仏教では救いの外にいた人たちが、自前の救済を求めたからでした。「一部の人」のための仏教が、「みんな」の仏教へと、本来の輝きを取り戻したと言えるのかもしれません。

 中でも象徴的なのが、親鸞聖人のお師匠・法然聖人と熊谷直実の関係です。直実は平敦盛を討ち取ったことで知られる源氏の猛将です。
(直実と敦盛の関係は、「人間五十年 下天の内をくらぶれば」という一節で知られる、幸若舞『敦盛』に描かれています)。

 

彼は、法然聖人と出会い「自分を救ってくれる教えに初めて会った」と、涙を流し帰依しました。そして法然聖人のボディガード的存在になるのですが、摂政・関白を歴任した最上位の貴族である九条兼実が、法然聖人を招いたときのこと。直実は身分が低いからと屋敷に入れてもらえませんでした。そこで「この世俗の世ほど悔しいものはない、浄土にはこんな差別はないはずだ」と嘆きます。ここに「差別」という概念が、日本史上はじめて用いられました。それまで当たり前だと思っていたことに憤りを感じ、平等に対する切実な希求が生まれたのです。

 

 そして、鎌倉幕府の設立から五十年ほどして第五代執権の北条時頼は、「撫民」ということを言い出します。つまり民を可愛がり、大事にしなくては駄目だと、幕府のトップが説くようになるのです。これは、平安貴族とはまったく異質な発想です。ここにも浄土宗の強い影響があるようです。(『日本史のツボ』本郷和人)




 ちなみに浄土真宗のお寺は、貴族や権力者、お金持ちの寄進で建てられたものではありません。庶民が「みんな」で建てたお寺です。「一部の人」のためのものではなく、「みんな」の救いのために建てられた、「みんな」のお寺なのです。平等院との違いを、ご理解いただけたでしょうか。そして法然聖人や親鸞聖人の教えが、どれほど当時の社会に、そして現代の私たちに影響を与えたのかということも。

 

 そういえばインターネットに、平等院でガイドさんの説明を聞いた人が、こんな書き込みをしていました。
「平等院は、身分によって入れる場所が決まっていたそうですが、これって、どう考えても不平等ですよね?平等院じゃなくて、〝不平等院〟じゃないですか?」
  

これも、法然聖人や親鸞聖人がおられたからこそ、言えることなのかもしれません。■