お取越しの季節です 

 

 
 

「開かれた」一人 

 




世の中には、凄い人がいるものです。私がその人を知ったのは、NHKで放送された『事件の涙』という番組でした。この番組は、事件の被害者・加害者、そして捜査陣などの「人間」にこだわり、事件に潜む知られざる「物語」を描くドキュメンタリー番組です。

宮崎でトラックドライバーをしている湯浅洋さんは、2008年東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件の被害者です。その日、多くの人で賑わう秋葉原の歩行者天国に、一台のトラックが突っ込んできました。五人をはねたトラックから降りてきた男は、刃物を持ち、人々に襲いかかります。当時タクシー運転手をしていた湯浅さんは、たまたま通りかかり、襲われていた人々を助けようと車を降りた直後、男に刺され重傷を負ったのです。事件から十一年、いまだ体にしびれが残るなどの後遺症に悩まされています。



湯浅さんは、死刑判決を受け、現在東京拘置所に収監されている加害者・加藤智大被告に、今も手紙を送り続けています。それは、自分が刺された恨みからではありません。湯浅さんが苦悩しているのは、「誰一人助けることができなかった。それどころか被害者になり、逆に迷惑をかけただけの話で終わっている」という自分の無力さ。そして、なぜあのような事件を起こしたのか、その真意を知りたいからなのです。

自分が刺されたことよりも、助けられなかった人たちのことを思う。これだけでも、凄い人だと驚かされます。しかし、それだけではありません。加害者の真意を知ろうとするのは、事件に向き合って欲しいから。そしてそれは、同じような事件を繰り返してはならないという思いからなのです。

加藤被告が、事件を起こす前にネットに書き込んだ言葉は、今も拡散し続けています。格差を嘆き、いじめに苦しみ、努力が認められないと思う若者の心に、凶行におよんだ彼の言葉が共鳴している。その言葉が、若者たちの〝閉ざされた〟心をさらに頑なにさせ、社会を呪う方向へと導いている。だからこそ、湯浅さんは「再び、同じようなことが起きてはならない。死刑が迫っている加藤被告には、せめてその前に人としての言葉を残して欲しい」と手紙を送り続けておられるのです。




湯浅さんは、普通のトラックドライバーのおじさんです。政治家でも、思想家や哲学者でもありませんし、社会を啓蒙し変革しようと思われているのでもありません。しかし、その問いや苦悩は、既に個人的なものを大きく超えています。「加害者には、人間を回復して欲しい。そして二度と同じような被害者を、加害者を生みたくない」。その心は、そして問いや願いは、過去の事件だけではなく、未来へ、あらゆる人々へと〝開かれて〟いるのです。

湯浅さんは被害者ですから、加害者に対して心を〝閉ざし〟、怨みを持っても何ら不思議ではありません。ところが、〝開かれた〟問いに立ち、願いを持っておられる。それは、出遇っている世界のスケールが違うからでしょう。湯浅さんは、あらゆる人々を思っておられるのですから。何とも、凄い人ではありませんか!〝閉ざされた〟心が呪いを生み、〝開かれた〟心が願いを生むことを、生き方を通して示してくださっているのです。

 

そんな湯浅さんの姿に、私は親鸞聖人を想うのです。親鸞聖人は、高僧といわれた人でも、当時の有名人でもありません。徹底的に「人間」にこだわり、庶民の中で共に暮らし、共に救われていく道を求められた方でした。

『歎異抄』という書物には、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(縁に触れれば、何をしでかすかわからないのが私である)という親鸞聖人の言葉が記されています。

聖人は「彼は、あの環境で育ち、様々な縁に触れたからこそ、このような愚かなことをしたのだ。ならば、私も同じような縁に触れれば、同じふるまいをするのかもしれない。彼と私の違いは、〝たまたま〟でしかない。彼は、私だ。そうであったかもしれない私、そうなるかもしれない私なのだ」と、様々な人々の中に、自分の姿を見出していかれたのです。

親鸞聖人の問いもまた、〝開かれて〟います。「彼と私は違う」といった個人的な経験に〝閉じて〟はいません。「彼も私も、同じ人間だ」という立場の問いなのです。だからこそ、「彼が救われなければ、私は救われることはできない。いや、すべての人々が救われる教えでなければ、私の救いはないのだ」と願われたのです。この問いの深さ、スケールの大きさ!圧倒されます。

 

 ところが、同じく『歎異抄』には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(阿弥陀様が長年の修行によって立てられた願いは、この私一人を救うためのものであった)とあります。しかし、この「一人」とは、親鸞聖人個人を指す言葉ではないのでしょう。

すべての生きとし生けるもの(十方衆生)を救うために、阿弥陀様の願い(本願)は立てられたのです。

「あなたが過ちを犯しても、決して見捨てはしない」

「必ず、敬われ尊ばれる仏にさせる」

「だから、仏に成る身として、大切に生きてほしい。
        失敗をしても、人生を投げ出さないでほしい」

それは、私がどのような縁にふれ、どのようなふるまいをしても、悲しみ、慈しみ続けてくださる心です。どんな「私」であっても決して見捨てることのない仏様が、阿弥陀様だと教えられるのです。

つまり、この「一人」とは、すべてに〝開かれた一人〟なのです。私であり、あなたであり、あの人です。様々な立場の人が、「この教えは、この私を救うためのものであった」とうなずける教えでなければ、私は救われない。親鸞聖人は、すべての「私」が救われる道を求め、阿弥陀様の広大な本願とはたらきに出遇われたのです。だからこそ、親鸞聖人の言葉は時代を超え、地域や立場を超えて、今も多くの人びとの心に響くのでしょう。

「お取越し報恩講」とは、まさに親鸞聖人の歩みを通して、「この教えは、この私を救うためのものであった」と気づき、うなずかれた人々の歴史でもあるのです。

 

湯浅さんが、加藤被告に送り続けた手紙には、未だ返事はありません。それでも湯浅さんは、彼に少しでも近づきたいと、彼の故郷・青森を訪ねたりもしました。
 獄中の加藤被告は2018年に、『人生ファイナルラップ』という詩を発表しています。そこには事件前の書き込みと同様に、社会を怨み、嘆く〝閉ざされた〟言葉が綴られていました。「彼は、まったく変わっていない」、絶望的な思いを感じながらも、湯浅さんは手紙を書き続けています。「最後は人であってほしい」そう願いながら。

湯浅さんの願いが、加藤被告に届いて欲しい。心を閉ざし、加藤被告に共感する若者の心にも。そう思いました。そして同時にその願いは、この私にも問いかけるのです。「あなたの心は、〝閉ざされて〟いないか」と。■