ヤゴは気づかない
 
  2020(令和2)年



近頃は、「人間、死んだら終わりだ」という人が多くなりました。だからでしょうか。新型コロナウィルスの影響が広がる中で、「どうせ死んだら終わりなんだから、好きなことをやった方がいい」といった、身勝手なふるまいが目につくようにもなりました。「死んだら終わり」と考える人たちが、よく口にされるのは「死んでかえってきた者なんていないのに、どうして阿弥陀さんやお浄土の存在を証明できるのか」という言葉です。でも、本当にかえってきた人がいないのでしょうか。実は、親鸞聖人こそ、「還ってきた人」と出遇われた方だったのです。とは言っても、巷で言われるような霊感が強い人とは違うのですが…。


 こんな昔話があります。
  ある深い池にヤゴ(トンボの幼虫)たちが住んでいました。彼らには、常々不思議に思っていたことがありました。それは、「ある時期になると仲間たちは、みんな百合の枝を登り、水面に出ていく。でも、誰もかえって来ないのはなぜだろう」ということです。
 そこで彼らは相談しました。
「次に誰かが水面に上ったら、必ず戻ってきて、何が起こったのかを話してくれ。約束だよ」
「わかった。きっとそうするよ」
固く約束をするヤゴたち。しばらくすると、そのうちの一匹が百合の枝にたどり着き、水面へ登りはじめました。それを見た仲間たちは、
「キミも、とうとうこの時が来たか」
「約束通り、何が起こったか伝えてくれよ!」
と声をかけました。登っていくヤゴも
「わかった!必ず伝えるから」
と応えます。
 ヤゴは、水面を出たところで脱皮し、美しい羽根を持つトンボに変身しました。彼は、自分がトンボになったことを伝えようと、池の水面を飛び回り、仲間に呼びかけます。
 しかし、トンボの呼びかけに耳を貸すヤゴはいませんでした。なぜなら、その美しい羽根を持ち、空を自由に飛び回る生き物がかつての仲間の姿だとは思わず、自分たちに向けられた呼びかけだと気づけなかったからです。(『座右の寓話』戸田智弘)

  この昔話から、私たちは何を学ぶことができるのでしょう。
 私たち人間は、仏様がどんな姿なのか、どうはたらきかけ、呼びかけてくださっているのかを知りません。知っているのは、仏像にあらわされている姿だけです。だから、どんな形で、どんな姿で仏様と成って還ってこられるのか。どう呼びかけられているのかを、私たちは知らないのです。
 にもかかわらず、「かえってきた者はいない」「だから、仏様なんていない」と決めつけているのが私たちではないでしょうか。だとしたら、仏様の呼びかけに気づくことはできません。ヤゴがトンボから呼びかけられても、気づくことができなかったように。
 お念仏の心をいただかれ、また生涯を幼児教育に捧げられた東井義雄先生は、
  「聞こうという心がなかったら 聞いていても聞こえない」
と言われています。自分の決めつけで世界を狭め、聞こうとする心がなかったら、仏様の呼び声は聞こえないのです。



 ところで、皆さんは「風」を見たことがありますか?「風」そのものは、目には見えません。しかし、木が揺れるのを見たり、涼しさを感じることで、つまり「風」のはたらきを通して、私たちはその存在を知るのです。
 地球の「重力」も、目には見えません。しかし、私たちが地面に立ち、座り、歩くことができるのは、「重力」のはたらきがあるからこそ。その「重力」を、リンゴが木から落ちたことをきっかけに発見したのが、自然哲学者で物理学者のアイザック・ニュートンです。ニュートンの発見によって、私たちは「重力」の存在とはたらきを知ったのです。
 そして、目には見えないけれども、阿弥陀様や、お浄土から仏様と成って還ってこられた人々のはたらきを発見されたのが親鸞聖人という方でした。南無阿弥陀仏のお念仏に、仏様の呼び声を感じ取っていかれたのです。
「亡き方は、仏と成って還ってこられ、私を導いてくださっている」
「阿弥陀様のはたらきによって、お浄土に生まれさせていただき、仏様に成らせていただく人生を、私も歩んでいるのだ」
「独りじゃない。共に生きてくださる方がある」
「死んだら、それで終わるような人生ではないのだ」と。


 実はこの発見。「親鸞聖人の…」と言うのは、正確な表現ではありません。親鸞聖人に先立ち、仏様のはたらきに気づかれた人々の歴史があり、その歴史を、親鸞聖人は教えてくださったと言った方が良いでしょう。
 そこにまた、親鸞聖人の教えに導かれ、仏様のはたらきに目覚めた人々が生まれたのです。そんな人々の歩みと歴史が、お取越し報恩講という行事に込められて、私たちのところにまで届けられています。「あなたも、阿弥陀様や仏様に成られた方々のはたらきに包まれて、生かされているのですよ」「あなたも、仏様のはたらきに気づいてください」という願いと共に。

 南無阿弥陀仏とお念仏を称え、お念仏に込められた仏様のはたらきと呼びかけに目覚めていく。そんな世界に出遇われた人々の歴史を受け継いでいくことが、亡き方を仏様と仰ぎ、これまでとは別の形で共に生きていく。そんな人生を開いていくのだと教えられるのです。■