聖徳太子と親鸞聖人
 
  2021(令和3)年







 「お札に描かれた人物といえば?」

 今年のNHK大河ドラマ『晴天を衝け』の主人公は、近代日本経済の父といわれる渋沢栄一です。渋沢は、二〇二四年に発行予定の新紙幣(一万円札)に描かれることになっています。
 ところで、紙幣に描かれた人物と聞いて、皆さんは誰を思い浮かべますか?私と同世代、もしくは上の世代なら、やはり聖徳太子ですよね。ほとんどの紙幣に、聖徳太子が描かれていた時期もありました。

 
では、聖徳太子とはどんな人かと問われると、どうでしょう。「和を以て貴しと為す」で有名な『憲法十七条』を制定したということは、よく知られていますが、やはり〝お札に描かれた人物〟というイメージが強いのでは。実は、今年は太子の一四〇〇回忌に当たるのです。

聖徳太子は、推古天皇を補佐する摂政として、世襲ではなく能力を基準に人材を登用する『冠位十二階』を定め、当時の超大国・隋(中国)へ『遣隋使』を派遣し大陸の文化を取り入れた方です。また、一度に多くの人々から話しかけられても、正確に聞き分けられるほど聡明だったという逸話は有名です。

そして何と言っても、日本で初めて仏教をきちんと理解し、広められた方なのです。『憲法十七条』は仏教精神に貫かれていますし、『四天王寺』や『法隆寺』を建設され、四天王寺内に貧しい民衆のための病院や薬局、福祉施設を置かれました。

聖徳太子が亡くなられて約六百年後に生まれられた親鸞聖人は、「和国の教主」(日本のお釈迦様)として太子を大変尊敬されていました。その為、浄土真宗の寺院には、聖徳太子の絵像が掲げられています(モチロン、極楽寺にもあります)。





 「聖徳太子は、日本人の鏡」

 駒澤大学の石井公成教授は、「日本の歴史上、聖徳太子ほど尊崇された人物はいないのではないか」と言われます。日本に仏教を広めた太子は、死後「観音菩薩の化身」「浄土への導き手」として信仰の対象とされました。しかし時代が進むにつれて、その敬い方は大きく変わります。大まかにまとめると、以下の通りです。

【戦国時代】
政敵である物部守屋を打ち破ったことから、太子に祈れば戦争に勝てるという『戦の神』として。


【江戸時代】
四天王寺・法隆寺などをつくった『大工の神様』へ。


【江戸後期~明治初期】
国学や儒教が盛んになると、「聖徳太子は、仏教という異国の宗教を持ち込んだ、とんでもないヤツだ」という見方に変わる。


【明治時代】
日本が欧米列強の脅威にさらされると、「外国と対等に渡り合っていくには、西洋の技術や文化を取り入れなければならない」という機運が高まり、「遣隋使を派遣し、大陸の文化を取り入れながら、より優れた解釈を打ち出した聖徳太子こそが『日本人の理想』である」という見直しが始まる。


【太平洋戦争時】
すべての国民は天皇の元で一致団結、すなわち「和して」戦わねばならないと、「和の強制」「和による排除」が始まり『国家主義的な聖徳太子』が誕生する。


【終戦後】
『憲法十七条』という平和憲法を作り「平和と話し合いの意義を説いた」として、今度は『民主主義の元祖』として奉じられることになる。


 このように日本の歴史と共に、イメージは大きく変わり、時には真逆へと変化していきました。こんな人物は、聖徳太子以外にはありません。それほど聖徳太子という存在は、人々の身近にあったのです。日本人は、一四〇〇年にわたり自分たちの理想を聖徳太子に読み込み、シンボルとし、時には利用してきた。つまり聖徳太子の崇め方には、その時代の人々が求めるものが反映されている。まさに、「聖徳太子は日本人の鏡」だと石井先生は言われます。「聖徳太子とは何者か」という問いは、そのまま時代を、そして私たち自身を考えることなのではないかと。
   (「聖徳太子とはなに者か」石井公成 学問する人のポータブルサイト・トイビト)

 



 「親鸞聖人の敬い方とは」

 では親鸞聖人は、どのように敬っておられたのでしょうか。親鸞聖人にとって聖徳太子は「日本のお釈迦様」であり、また「観音菩薩の化身」だと受け止めておられたようです。

親鸞聖人は、いつも人生の岐路に立たされた時、聖徳太子を道しるべとされました。若き苦悩の時。長年修行してきた比叡山を降り、法然聖人のもとに行くべきか迷った時。親鸞聖人はいつも、聖徳太子ゆかりの地へと足を運ばれ、夢のお告げを通して歩むべき方向を定められたのです。

哲学者の亀山純生先生は、聖人の苦悩には時代背景が大きく影響しており、夢のお告げがその後の選択に重要な役割を果たしたと言われています。

 



 「災害社会と親鸞聖人」

 親鸞聖人の生きておられた時代は、自然災害が数多く起こった時代でした。幼少期からの十年間に、近畿地方だけでも五度の大地震(内二つは関東大震災クラス)が起こり、その後も頻繁に続きます。台風による洪水や山崩れもありました。大火災、疫病、寒冷化による凶作。そこに源氏と平家による内戦が絡み、天災人災相まって日本史上最大級の大飢饉が何度も起こっています。親鸞聖人が生まれ育った京都では、人口が密集していたこともあり、道路には餓死者が溢れ、河原は捨てられた遺体で埋まったとも言われます。

災害や飢饉の中で自ら体験し、目のあたりにした悲惨な民衆の状況が、「自他ともに救済する大乗仏教(特に民衆救済)への志を深くした」のではないかと、亀山先生は指摘されます。生身に突きつけられた悲惨な経験を通して、共に救われていく道を求められた。この生涯を貫く思いは、再び続く大災害の中でますます危機感を強め、これまでの仏教の枠組みに対する疑問、そして堕落した仏教界への絶望へと繫がったのだと言われるのです。

 



 「夢の役割」

 では、その絶望と夢には、どのような関係性があったのでしょう。私たち現代人は、夢のお告げを怪しげなものと受け止めがちですが、当時はとても重要視されていたのです。現代の心理学でも、夢とは無意識が現れたものとも言われます。意識されなくても、言葉にはならなくても、自分の奥底で求めているものや問題点が、夢に現れる。ユング派心理学では、それが心の安定を保つために役立つのだとも言われています。

何より、道を求める者にとって夢とは、その決断を後押しするものなのだそうです。「今のままではいけない」と感じながらも、一歩が踏み出せない。そんな行き詰った状況への「超越的な世界からの応答」であり、飛躍する決断の背中を押すもの。それが「夢のお告げ」の意義なのだと。
          
    (『〈災害社会〉・東国農民と親鸞浄土教』亀山純生)

幾多の災害の中で、見捨てられた人たちがいた。自身も、まさに被災者の一人として生きてきた。だからこそ、共に救われていく道を求めて仏道を歩んできたはずだった。しかし、それまでの仏教の枠組みでは、私にとって大切な人が救いからこぼれ落ちてしまう。そんな現実を知らされた。あの人たちが救われないのなら、私だけ救われても意味がない。では、共に救われていく道はどこにあるのか。親鸞聖人は、そう問い続けられたのでしょう。もしかすると、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」に貫かれた精神にこそ、仏教の本質があるのではないかと考えられたのかもしれません。

 そこには、当時の仏教界の主流から離れ、新たな道を歩まれていた法然聖人の存在がありました。法然聖人のもとに向かうべきか。その思いがどこかにありながら、踏み出せない。長年に渡り積み重ねてきたものを、簡単には捨てることができない。そんな行き詰まりの中で、聖徳太子の夢のお告げによって背中を押されたのです。そして法然聖人のもとで、阿弥陀如来の本願に出遇われ、「ここにこそ、私のために説かれた教えがあった」「すべての人々と共に救われることができる道と出遇うことができた」と感動された。共に歩む道が開かれた。それは「聖徳太子の導きによるものだった」と、親鸞聖人は受け止められました。

 「観音菩薩」は、阿弥陀如来の慈悲のはたらきを象徴し、勢至菩薩は智慧を象徴する菩薩です。阿弥陀如来と共に、人々を導く菩薩なのです。聖徳太子を「観音菩薩の化身」として崇められたのは、まさに阿弥陀如来の本願(共に救われていく道)へと導かれた、その実感を通したものだったと言えるのではないでしょうか。

 



 「鏡に映った私たちの社会」

 石井公成先生の〝「聖徳太子は何者か」という問いは、そのまま時代を、そして私たち自身を考えることなのではないか〟と指摘されました。そして親鸞聖人が生きておられた時代と、聖人が求められたものを、聖徳太子の敬い方を通して味わってきました。

ならば、「聖徳太子といえばお札に描かれた人」というイメージが強い、私たちの世代はどうなのでしょう。聖徳太子をお金の象徴として拝む、経済優先の社会を作り上げた姿が見えてくるのでは。そんな気がします。

実は、このような状況を一番危惧したのは、新しいお札の顔となる渋沢栄一だったそうです。渋沢は、豊かな社会をつくるための手段(道具)として経済を考えていました。経済やビジネスが、個人の私利私欲のための手段になることに警鐘を鳴らしていたのです。しかし、残念ながら渋沢の思いは届かず、経済が何よりも優先され、人が経済の道具として扱われている。そんな社会となってしまったように思えます。モチロン経済はとても大切なものですが、あくまでも人や社会のためであり、経済のために人がいるわけではありません。

 今年は東日本大震災という未曽有の大災害を経験して、十年目となりましたが、当時は「絆」「助け合い」「支え合い」という、まさに「和」の貴さが叫ばれました。ところが、今やそれはすっかり忘れ去られ、経済合理性の名のもとに「迷惑をかける者や、生産性がない者は切り捨てろ」という言葉が飛び交っています。自己責任だと突き放され、助けを求めることが許されない空気も強まっています。災害を通して、誰もが助けを必要とする立場になるかもしれないことを、知らされたのにも関わらず…。

 そしてまた、新型コロナウィルスの感染拡大という災害が、世界を覆っています。こんな時代だからこそ、改めて助け合うこと、「和」の貴さを思わねばならないと痛感させられます。但しそれは、「和」を乱す者は許さないという「和の強制」「和による排除」ではありません。親鸞聖人が求められた、「共に救われていく道」への歩みです。


 一四〇〇回忌という節目の年に、聖徳太子への見方を鏡として、私の生き方を見つめ直す。そして、お取越し報恩講を通して、親鸞聖人が求められた道と出遇っていく。その大切さが、改めて思われます。厳しい状況だからこそ、先を歩まれた方々の導きを、味わっていきたいものです。■