ただ念仏して
 
  2022(令和4)年







 来年は、親鸞聖人のご誕生から850年目にあたります。また再来年は、親鸞聖人が主著『教行信証』を著されてから800年目となります(この年が、浄土真宗が開かれた「立教開宗」の年とされています)。その為、来年の3月かから5月にかけて、京都の本願寺では『親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要』がお勤めされることになりました。コロナ禍の心配はありますが、三隅地区では団体参拝を計画しています。詳細は改めてご案内しますので、ぜひご参加ください。

 

さて、突然ですが質問です。皆さんは、努力して良い成績をとった人が入れる学校と、名前だけ書けば入れる学校と、どちらが良い学校だと思いますか?大抵の人は、努力して入る学校が良いと思われるのではないでしょうか。世間一般で言われる一流校とは、そんな学校ですから。

では、もう一つ質問です。厳しい修行をして悟りを得る仏道と、ただ念仏を称えれば救われる仏道と、どちらが素晴らしい道だと思われますか?やはり、「長年厳しい修行をしてきたお坊さんの方が、信用できる」と思うのが一般的な感覚でしょうし、そちらの方が素晴らしい仏道だと思われるのではないでしょうか。自分がその道を歩めるかどうかは、別にして。

親鸞聖人の当時も、そんな感覚が当たり前でした。「ただ念仏」で救われる仏道は、「惨めで劣った者のための、最もレベルの低い行」だと考えられていたのです。優秀な者には、優秀な教えがある。「ただ念仏」で救われる教えなど、愚かで憐れな人々のためのものだというのが一般的な認識でした。ところが親鸞聖人は、「ただ念仏して、弥陀にたすけまゐらすべし」(『歎異抄』)と、念仏を称え阿弥陀様に救われていく愚者の仏道を歩まれました。浄土真宗のみ教えは、修行して立派になる仏道ではないのです。こう聞くと、惨めで劣等感にまみれた仏道のように感じられるかもしれません。しかし、この「ただ念仏」の仏道が800年以上の長い歴史を通して、多くの人々の心に響き、私たちのところにまで届けられている。これは一体どういうことなのでしょうか。




 

福岡市の東区に、私立の「立花高校」という学校があります。この学校は、「入試で、名前さえ書けば入学できる」ことで有名です。そう聞くと、レベルの低い劣った学校なのだろうと、思われるかもしれません。実際に、そう思われた時代もありました。ところが今や、文科省の役人や他の学校の先生たちが視察に来て、驚き感動して帰っていくという大注目の学校なのです。

実は、この学校へ通う生徒のおよそ八割が、小中学校で不登校を経験してきました。障害のある子もいます。でも、みんなとても生き生きしているのです。この学校の設立は1957年。「一人の子を粗末にする時 教育はその光を失う」を理念として、当時の教育に違和感を抱いた公立高校の先生たちが、退職金を持ち寄って作った学校です。誰でも入れる学校とバカにされ、1970年代には全校生徒が3人になったこともありました。それでも「一人の子を大切にする」という理念の下で学校運営を存続し、今では定員を超える520人の生徒が在籍しているのです。

現在校長をされている齋藤眞人先生は、講演でこのように言われています。

 

立花高校に赴任した当初、ビックリしたことが多かった。例えば、濃い化粧をして登校する女子生徒がいる。もちろん学校のルールでは、化粧はNG。だけど、先生たちは「あれは自分を守るために、自己防衛で化粧してくるけんね~、化粧とったらあの子は来れんくなるけん、どうしたもんかね~」と話される。そんな言葉を聞いて「あぁ、この学校の先生は、ルールよりも子どものことを真剣に考えているんだ」と感動した。みんな、悩みを抱えている。誰もが、それぞれの立場で頑張っている。この学校の先生たちは、そんな事情に向き合い、「ルールだから」と切り捨てることをしない。一人ひとりに寄り添う教育とは、こういうことだと思った。

そして実際に、名前さえ書けば入れる学校。なぜなら、優劣をつけることなんてできないから。来たいと思って、頑張って試験を受けてくれる。それだけで嬉しいから。

入試前、お母さんから「入試に私服で行ってもいいでしょうか」と電話がかかってくることもあった。ずっと中学校に行けなかったから、久しぶりに制服を着ると身体が成長していて入らない。もちろん答えは、「私服でどうぞ」。外出自体が数カ月ぶりという子だっている中で、入試を受けようとしている。それが親子にとって、どんなに大きな一歩か。

入試の日、学校前の坂道で、緊張のあまり吐いてしまう子もいた。吐くほどの緊張と、その子は闘っている。すると、通りがかった別の学校の子が背中をさすって「大丈夫だよ」と励ましていた。その光景を見て、胸が熱くなって泣けて、泣けて。そんな子たちを、とてもじゃないが落とせない。

入試当日の朝、「どうしても子どもが家を出ない」という保護者からの電話があれば、以前は職員が自宅まで車で迎えに行っていた。でも、それはやめた。無理して連れてくるのは違うと思ったから。今は、「本人が来ようと思うまで待ちましょう。私たちは来年でもいつまでも待っていますから」と伝えている。保護者だって本人だって、つらい。頑張っている。だから入試の日はいつも「頼むから学校に来て、そして名前を書いて」と、願っている。そうすれば、あとは一緒にやって行こう。それまで、待っている…と。




 

立花高校は、名前さえ書けば入れる学校です。誰でも入れます。しかし、そこには先生方の尊い願いがあるのです。「名前さえ書いてくれたらいい。そしたら、一緒に歩んでいこう。来れなかったら、いつまでも待っているから」、そう言ってくれる素敵な先生たちがいる学校なのです。それぞれに苦しんでいる子どもたちと、その家族と、共に歩んでいきたい。そんな先生方の思いと取り組みの中で、次第に子どもたちも変わっていくのです。

私たちは、良い成績をとった優秀な人間が通う学校が素晴らしくて、名前だけ書けば入れる学校はダメだと、当たり前のように思っています。確かに努力して、競争に勝つことは大変なことです。努力を否定するつもりもありません。しかし努力を積み重ねていくほどに、それを握りしめ、他人をバカにする人間になるのであれば、それはとても寂しいことだと思います。

何より結果だけで、その人の人生までも決めつけるのは安易です。努力で勝ち取った人は、「結果が出ない人は努力が足りない」と決めつけ、同じ努力を人に求めがちですが、それぞれの事情や環境は違うのです。実は誰もが、それぞれの立場で頑張っている。にも関わらず、安易な考えで決めつけているうちは、立花高校の取り組みの素晴らしさは理解できるはずもなく、同時に「お念仏一つで救われる」という仏道も、惨めで愚かな者の道だとしか思えないでしょう。

立花高校の理念は、「一人の子を粗末にする時 教育はその光を失う」というものでした。そして、阿弥陀様の願い(本願)は、「十方衆生、即ちすべての生きとし生けるいのちを、必ず敬われ、尊ばれる仏とさせる」というもの。どちらも「誰も切り捨てない」という願いです。考えてみれば、優秀な者だけを選び、あとは切り捨てるというのは、ある意味簡単なことなのです。しかし、一人ひとりを大切にしていくこと、誰も決して見捨てないこと、これは本当に大変です。こちらの方が、遥かに厳しく、険しい道でしょう。だからこそ、尊いのです。




 

私たちは、「努力し、結果を出す人は素晴らしい」「劣った者は、努力が足りないダメなヤツらだ」と思ってはいませんか。しかし、自分の大切な人が「ダメなヤツ」と切り捨てられそうになったら、自分がそう言われる立場になってしまったらどうでしょうか。立花高校に通う子どもたちも、そのご家族も、そんな言葉に日々苦しめられ、追い詰められてきたのです。

人間である限り、誰しも弱さや愚かさを持っています。人生は、順調な時ばかりではありません。苦難や挫折、自分の弱さや限界を突き付けられることもあります。いくら頑張っても結果が出ない時もあるし、頑張ることさえできない時もある。何より私たちは、必ず老い、病み、死ななくてはならないという厳粛な事実を抱えているのです。

愚かさをバカにし、弱い存在を切り捨てようとする考えは、自分が、そして大切に思う人が弱い立場に立たされる時、今度は自分たちに襲いかかってきます。それまでの思いが、自分たちを惨めにさせ、苦しみを生み出していく。これは想像以上に過酷なことです。そんな時に「あなたを決して切り捨てはしない。一緒に歩んでいこう。いつまでも待っているから」と、この私を大切に思ってくださる願いとはたらきに出遇ったなら、人生は大きく変わります。





親鸞聖人は、誰もが持っている弱さや愚かさに毅然と向き合う中で、阿弥陀様のご本願と出遇われました。「私たちには、どんな者をも切り捨てないという阿弥陀様の尊い願いがかけられている。南無阿弥陀仏のお念仏に込められて、その願いとはたらきが、この私に、そしてあなたにも届けられている。さあ、お念仏称えましょう。お念仏を称える時、私たちはその心に包まれているのですよ」と、教えてくださったのです。

この願いの尊さは、自分の弱さや愚かさに向き合うことがなければ、わかりません。この願いがどれほど凄いものなのかは、人間の事実から目を背け、安易に人生を決めつけている人には理解できるはずもないのです。

「ただ念仏」の道が、長い歴史を通して多くの人々の心に響き、私たちのところにまで届けられているのは、親鸞聖人の歩みに導かれ、阿弥陀様の尊い願いに包まれていることに感動した人々の歴史があったからだと言えるでしょう。親鸞聖人がお生まれになられて、来年は850年目を迎えます。長い歴史を経て、私のところに届けられた尊い願いとはたらきを、お念仏を称えながら、しっかりといただきたいものです。■