2023(令和5)年『築地本願寺新報』4月号「法話」

 東京の築地本願寺から発行される『築地本願寺新報』に、法話を寄稿しました。なんと、寄稿依頼が続けて四件目!もう、このようなことはないでしょうが、良い経験をさせていただきました。もちろん、大変さも含めて…。



 



 

私は、葬儀やお通夜にお参りする際、皆さんの前で「葬儀とは笑いあり、涙あり≠ネのですよ」と話すようにしています。なぜなら、遺族を守るために…。

近頃は、インターネットやSNSの普及で、様々な声が取り上げられる時代になりました。その為、これまで届かなかった少数意見や、違った角度からの価値観も注目されるようにもなりました。それはとても大切なことですが、同時に自分の価値観だけで決めつけた言葉も、飛び交うようになったのです。「お葬式で笑うなんて、不謹慎だ!」といった言葉も。

でも、葬儀は別れを悲しむ場だけではありません。亡き方と出会い直す場でもあるのです。あんなことがあったなぁと、共に過ごした日々を振り返る。そこには笑いもあれば、涙もある。それが人生ではないですか。葬儀では、久しぶりの再会もあります。そこで生まれる笑いも、亡き方からの贈り物だといえるでしょう。

それを「不謹慎だ!」と決めつけるのは、葬儀を知らない人の、いや人生を深く知らない人の一方的な意見です。勿論、そんなことを言う人はごく一部ですが、近頃は「誰かに、何か言われるのでは」と怖れる空気があるのは確かです。それが委縮を生めば、葬儀から人間性が奪われかねません。だからこそ私は、遺族を守るために一言添えるのです。「葬儀とは笑いあり、涙あり=vだと。

そして実は、悲しみ方も人それぞれなのです。号泣される人もいれば、悲しすぎて涙が出ない人もいます。深く傷つきながらも冷静にふるまう人も、悲しみを内に秘め何年も経ってから涙を流される方もあります。私は葬儀や七日参り、法事を通して、そんな人たちと出会ってきました。人間って、安易に決めつけることはできないと、つくづく思い知らされています。




 仏教が警戒する三大煩悩のひとつ「愚痴」は、真理に対する無知をあらわし、「無明」とも表現されます。「無明」と聞くと大抵は、何も見えない暗闇で手さぐりしながら彷徨う姿を思い浮かべるのではないでしょうか。「何も見えない(無明)=何も知らない(無知)」というイメージを。

 ところが「無明」とは、もっと深い迷いなのだと教えられるのです。迷っていると知る者は、道を探し、求めようとします。謙虚な態度で聞くことも、自分の行為を振り返ることもするでしょう。しかし、迷っている自覚のない者は、道を探すことも聞くこともしない。相手を、そして自分を決めつけて、ひたすらに迷いの奥に突き進んでいく。そんな、確信に満ちた迷いの姿を「無明」というのだと。それが、自他を苦しめる生き方を生み出すのだと。

 親鸞聖人は、自らを「愚者」と名のられた方でした。それは、迷いの中にいることにも気づかずに、迷いを深めている私を、それでも見捨てず寄り添ってくださる阿弥陀様のはたらきに出遇い、知らされた姿でした。温かなまなざしの中で、自分の無知を知るからこそ、聞き、求めていく歩みが生み出されたのです。その営みに、私は限りない豊かさを感じています。■