2023(令和5)年6月 本願寺新報『みんなの法話』

 またまた、西本願寺より発行される『本願寺新報』の「みんなの法話」欄に、掲載されました。「私のような者が、何度も書かせていただいて申し訳ない」と思いながらも、図々しく書いています。ホント、申し訳ありません…。




電子マネーが普及して、現金を持ち歩かない人が増えているようです。確かに便利ですよね。支払いはスムーズだし、ポイントが貯まってお得だし、銀行に行く手間も省ける。良い事ばかりと思いきや、実はそうでもないような。特にお寺には馴染まないと思うのは、私が古い人間だから…というわけでもないのです。


 こんなエピソードがあります。ある保育所では、一つの問題を抱えていました。お迎えに来る親御さんの遅刻が増えてきたのです。お迎えまでの間、保育士さんが居残らねばなりません。困った保育所では、遅刻に対し「罰金」をとることにしました。ところが予想に反し、遅刻は増えたのです。なぜなら「お金さえ払えば、遅れてもいいんだ」と「料金」のように受け止められ、それまで感じていた後ろめたさがなくなったから。(『それをお金で買いますか』マイケル・サンデル)

「罰金」には、やめて欲しいという願いが込められています。しかし、それを「料金」とする時、願いは見失われます。お金を払うという行為は同じでも、中身は別物になるのです。


 私が電子マネーを警戒する理由は、ここにあります。これまでは剥き出しにせず、慎みをもって包み、手渡すという文化がありました。そこには「ただ、お金を渡しているのではない。心を手渡しているのだ」という敬意と思いが込められていたのです。コスパ(費用対効果)やタイパ(時間対効果)という経済合理性から見れば、無駄に見える行為なのかもしれません。「ピッ」という電子音と共に、金額のみ行き交う関係が効率的。しかしそれだけでは、見失うものがあるのです。相手を思うが故の、ひと手間。込められた温もりやメッセージ。人間の営みは、効率や合理性だけでは量れません。それらに気づく感性が、電子マネーの普及により、ますます衰えそうで怖いのです。特に私は、流されやすいので。


そうなると、「御布施」も「料金」のように扱いかねません。「布施」とは本来、「施し」「喜捨」の意味で、仏教の重要な実践行為。自分の持ち物を他者に施すことで、執着から離れ、身心を整えるためのものです。その施しは、金品(財施)だけではありません。仏法の施し(法施)や安心感を与えること(無畏施)、笑顔(和顔施)など様々なものを施し施されることで、他者との関係が深まり、自らが育てられていく。それが「布施」という営みなのです。

その心を見失い、効率ばかりを重視すると、渡す側も受け取る側も、「料金」や「サービス」のように扱ってしまいます。いや、すでに扱っているのかもしれませんが。

 

仏教説話『貧者の一灯』は、「王様が金にあかせて寄進した多くの灯火は消えてしまったが、老女が貧しい中にも心を込めて寄進した灯火は消えなかった」というお話です。金額の多寡よりも、真心が大切なのだというこの譬え、きれいごとと受け止められがちですが、とんでもない。なぜなら、金額だけで人を量るとは、「もっと高い金額が貰えるのなら、あなたでなくてもいい」ということ。つまりは他者を、そして自分を取替可能なモノとして扱うことであり、「あなたでなくてはならない」という「かけがえのなさ」を手放す行為だからです。ならば『貧者の一灯』は、人間のかけがえのなさを奪う行為に抗う、仏法からのメッセージだと言うと大袈裟でしょうか。


 お寺は、経済活動の中にありながら、経済合理性とは違う枠組みで成り立っています。この私を「かけがえのない存在」だと願われる阿弥陀如来のはたらきと出あい、共に願いをかけられている「かけがえのない存在」としての他者と出あう。そんな温もりある願いが行き交う場なのです。そして、世の流れに対峙し、抗う価値観を発信できる場でもあると、私は考えています。

 

 電子マネーが、すべていけないとは思いません。私も使っています。それに、貨幣経済が隅々にまで浸透し、様々なものが商品化されてしまった社会では、お金がどれほど重要かも身に染みています。
 しかし時代に流され、金額や効率では量れないものに気づく感性を失うと、自分の人生も、そしてお寺の存在意義も見失ってしまうのではないか。そう警戒しながら、仏法に問い尋ねる日々を過ごしています。■。