2023(令和5)年3月 本願寺新報『みんなの法話』




 

近頃は「人間、死んだら終わりだ」という人が、多い時代になりました。しかし、私は住職として多くの葬儀を勤めてきましたが、大切な人を失って悲しむ方の面前で「人間、死んだら終わりだから」と言い放つ人を見たことがありません。何より、日頃は「終わり」というくせに、いざ自分の大切な人を亡くした時には大抵こういわれるのです。「また向こうで会おう」「向うから、見守っていてくれ」と。「おいおい、今まで言ってきたことと違うじゃない!」「それって、都合が良すぎるんじゃないの?」とツッコみたくもなります。でも考えてみれば、人間は自分の問題として突きつけられなかったら、なかなか真剣に向き合うことはできませんよね。私はたまたま縁あって、住職という立場にあるから考えているだけのこと。そうではなかったらと思うと…、とてもツッコめる資格はなさそうです。ただ、生と死に真摯に向き合い、いのちの行く末を問うていかれた方々の歴史に、敬意を払うことを忘れてはなりません。「彼岸会」とはまさに、そんな人々の歩みが込められた行事だと、私は思うのです。

「彼岸」とは、文字通り「彼の岸」という意味です。私たちが生きているこの世界を「此岸(しがん・このきし)」というのに対し、覚りの世界、阿弥陀様のお浄土を表わします。お浄土は「西方浄土」ともいわれますが、実際に、西へ進めばお浄土があるということではありません。西とは太陽が沈む方向、すなわちいのちが帰っていく世界を象徴的に表すもの。つまりお浄土とは、阿弥陀様に抱かれて、私たちが帰っていく世界なのです。そんな、いのちの行く末である「彼岸」と出遇い、死するいのちである事実を受け容れ、「此岸」を確かに生き抜かれた人々の歴史があることを、この行事は教えてくださるのです。

 

 昨年末、父である前住職が、お浄土へ往生させていただきました。多くの方々のお陰と様々なご縁に恵まれ、最後まで自宅で過ごし、家族で看取ることができました。本当に有り難いことだったと思います。冬休みで帰省していた私の子どもたちも、よく世話をしてくれました。そんな中、子どもたちが明らかに成長していくのが感じられたのです。世話をする側が、される側から育てられている。意識を失っても、この世のいのち尽きてまでも、父は孫たちに成長を与えてくれている。人は、死んで終わるものではないことを、実感させられました。

育てられたのは、私も同様です。人は必ず老い、病み、死んでいかなくてはならないという厳粛な事実を、父は身をもって示してくれました。身体の向きを変えるだけでも、人の手を借りなくてはならない。下の世話もしてもらわなくてはならない。それは歳を重ねた先の、私の姿なのだと突きつけられたのです。目を背けたくなるような、惨めな姿だという人がいるかもしれません。しかし、そんな厳しい現実を淡々と受け容れ、感謝しながら生き抜く父の姿から、私は目を背けることはできませんでした。

父はある時、半ば朦朧とした中で「臨終の良し悪しを問わず」とつぶやきました。その言葉には、「どんな私であっても、どんないのちの終わり方であっても、阿弥陀様は決して見捨てることなく、抱きとってくださる」という確かな安心感がありました。その時、私は知らされたのです。父が、老いや病いや死をそのままに受け容れられたのは、阿弥陀様のはたらきに支えられ、育てられたからだということを。確かな拠りどころに出遇えた人こそが、人生を確かに歩むことができる。そこにはまた、「彼岸」と向き合ってきた人々の、連綿とした歴史をも垣間見ることができました。

老いや病い、そして死を突きつけられる時、自分の本当の姿が知らされます。その時にこそ、本当に頼りにすべき拠りどころも明らかになる。「彼岸会」とは、そんな人間の事実と向き合ってきた人々の、連続無窮なる歩みが込められた行事だったのです。私は今、改めてそのことを突きつけられています。■