2014(平成26)年4月号 |
昔は、当たり前のようにそれぞれの家庭にあった「お仏壇に手を合わせる風景」が、気がつけばすっかり珍しいものになってしまいました。そんな時代に、お参りの大切さ、お仏壇のはたらきを再確認したいという思いではじまったこの企画。気がつけばすでに三年目、八回を数えます。今回から、いよいよ最終章に入ります。まずは、これまでを振り返ってみましょう。 |
第二回 「効く」と「聞く」 第三回 亡くなった人がいないのに、お仏壇は必要ですか 私たちは亡き人や先祖を、たたるもののように怖れてはいないでしょうか。友引葬を避けるのは、その象徴ともいえるでしょう。それは、亡き人と仏さまとして出遇うのではなく、怨霊や亡霊のように扱うことでしかありません。 願い事をかなえるためには、手も合わせるし、頭も下げる。たたりが怖いから、それを鎮めるためにお仏壇を用意する。それはすべて『自己中心、他を思えない、感謝の気持ちに欠ける』態度です。 仏様に手を合わせるとは、『自己を見つめる・他者を思う・感謝』の表現なのです。それは、亡き人を尊ぶことにおいて、そして心豊かに生きる上において、本当に大切なことだと言えるでしょう。 第四回 我に返る
第六回の『歴史が刻まれている』では、私たちのいのちの行き先は、理屈や知識で考えてもわかるはずはない、なぜなら証明しようがないからだというお話でした。 証明しようのない道を歩もうとするその根拠やリアリティ―は、先を歩まれた先輩方の後ろ姿から伝えられてきたのです。お仏壇には、往生人の歴史が刻み込まれています。その後ろ姿から眼を背け、テレビやゲームの画面、そしてお金儲けのことばかり追いかけていては、リアティ―を失うはずでしょう。まあ、私もお寺に生まれてなかったら、完全に見失っているタイプの一人なのですが。
そして第七回『受け容れられる場所』では、お仏壇の中央におられる阿弥陀様のはたらきをご紹介しました。 近頃は、「自尊感情」(自分自身を価値のある存在としてとらえる感情。うぬぼれやわがままとは違い、未熟さなどのマイナス要素を含めて、自分自身を受け容れることができること。)の大切さが叫ばれています。それだけ、自分を丸ごと受け容れてくれる場所がないということなのでしょうか。役に立てばいいが、役に立たなければ、生きていく資格がないとでもいうような時代なのでしょうか。自分が役に立つということは、人間が生きる上で大きな喜びであり生きがいでもありますが、逆に役に立たなくなった時に、生きる拠り所を見失うことにつながりかねません。 こんなナゾナゾをご存知ですか。「だれにも 相手にしてもらえない くだものって なあに?」答えは「ようなし(洋梨)」です。昔は笑いにもならなかったようなナゾナゾが、とても切なく響くのはなぜでしょう。「生きる資格」なんてない。誰もがかけがえのない存在なのだと願いをかけられ、私たちをそのままに受け容れて下さる仏様が阿弥陀様であり、阿弥陀様と出遇う場所が、お仏壇なのです。
さて、これまでの連載で指摘したことは、「自分を中心とした考え方」が、自分を迷わせ、苦しめていくのだということに尽きるのではないかと思います。 仏教は、「こうでなければならない」「役に立つ、立たない」「損か、得か」「敵か、味方か」という自分が持っている思い、枠組みで周りや自分を見て、それに合うか合わないかで一喜一憂することが、苦悩を生み出すのだと指摘します。私の思いという枠組みからなかなか逃れられない私たちですが、心を落ち着けて、枠組みを見つめ直したり、離れて見たりという時間と場所があるということは、とても大切なことであるはずです。
相愛大学の釈徹宗教授は、お仏壇とはまさしくそんな場所であり、居住空間の中における軸となる場所であると言われています。 「居住空間の中に明確な軸を設定しませんか。/どんなものでもいいんですよ/見えないけれども限りないいのちである仏さまをおまつりする/簡単なのでいいんですよ/ご本尊だって、自分で描いてもかまいません」 「お仏壇がなくても、生活をすることは可能です。/でも、もし家屋に仏間やお仏壇があれば、そこはとても気になる空間になります。あまり放置しておくのは気がかりですし、お仏壇の方に足を向けて寝転がるのも抵抗があります。そのように、家の中に気になるものがある生活と、それがまったく無い生活とでは、きっと生き方や価値観が違ってくるのではないでしょうか。」
自分の思い通りになれば幸せになれるというのが、現代社会に生きる私たちの枠組みですが、その枠組みの外から私に問いかけてくる世界があるのです。その世界との扉が、お仏壇として私たちに用意してあるということは、実はとんでもなくすごいことだと思います。 お仏壇が、気になる存在としていつも私を刺激して下さる。呼びかけて下さる。この有り難さを、もう一度復活させたいのです。とてもモッタイないことなのですから。■
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